中山道六拾九次「福島宿」【福島関所】


中山道「福島宿」は、江戸の日本橋から数えて三十七番目の宿です。

 

 信濃国(現・長野県木曽郡木曽町)

 人口:972 総家数:158

 本陣:1 脇本陣:1 旅籠屋:14

 

 

福島は『関所』のあった町として、数多くの史跡が街道の歴史を伝えています。

 

中世には木曽氏の城下町として発展し、宿としても既に天文年間(1532年~1555年)には成立していたといわれています。

 

江戸時代には中山道の宿駅に指定される一方で、『関所』が設置され、木曽地方を治めた木曽代官山村氏とその家臣団が居住しました。

 

また、福島は御嶽山の登山口にもあたり、多くの参詣者で賑わうなど、木曽路のなかで政治・経済・交通面の中心的な存在でした。

 

振り返れば、冬になると御嶽山にあるスキー場(開田高原マイア・チャオ御嶽・御嶽ロープウェイ)や藪原スキー場,野麦峠スキー場,新和木曽駒スキー場に通い詰めていました。

 

ここ木曽福島も走っていたのですが・・・ 

当時は歴史などには興味も無く、ただ素通りしていました。

 

いま思えば何てモッタイナイ・・・

あの頃はボード遊びに夢中だったなぁ~

 

では一体何故?

ここに来ることになったのか?

 

「中山道広重美術館」で、歌川広重の浮世絵「福し満」を見たからです。

 

福 し 満 ? ふ く し ま ?

 

あっ! 木曽福島のことか~

 

漢字が違うんだなぁ~ なんでだろう?

 

こんな疑問から旅の第一歩が始まっていきます。

 


■中山道 福島宿

 

Googleマップで「福島宿」の位置を確認してみると、現・国道19号はバイパス的な存在でトンネル道になっており、旧・国道19号は昔の旧中山道のルートをなぞっている感じです。

 

今回、一番興味を持ったのが『関所』です。

 

江戸時代の主要な陸上交通路であった"五街道"には、大名の統制や江戸の防衛、治安維持などを目的として各所に『関所』が置かれました。

 

なかでも整った施設と厳しい取締りによって重視されていたのが、東海道の箱根・新居、中山道の碓氷・福島の「四大関所」です。


■五街道

 

徳川家康が慶長六年(1601年)に「伝馬朱印状」を交付してから全国支配のために江戸と各地を結ぶ5つの街道を整備し始め、2代将軍秀忠の代になって基幹街道に定められました。

 

①東海道:江戸と京・大坂を結ぶ江戸時代の最も重要な街道。品川から大津(滋賀県)までの間に53の宿場がありました。さらに大津と大坂の間には4つの宿場があり京街道といわれました。これも東海道の一部でした。

 

②中山道:江戸から今の群馬・長野・岐阜・滋賀県を通って京都に至る街道。板橋(東京都)から守山(滋賀県)までに69の宿場がありました。守山を過ぎてからは東海道の草津宿(滋賀県)に繋がっていました。

 

③日光道中:江戸と東照宮のある日光(栃木県)を結ぶ街道。千住宿(東京都)から鉢石宿(栃木県)までに21の宿場がありましたが、宇都宮宿(栃木県)までの17宿は奥州街道の宿場を兼ねていました。

 

④奥州道中:日光街道の宇都宮宿から白河宿(福島県)に至る街道で、10の宿場がありました。白河よりさらに北へ向かう街道を含める場合もありました。

 

⑤甲州道中:江戸から八王子(東京都)、甲府(山梨県)を経て中山道の下諏訪宿(長野県)に至る街道。内藤新宿(東京都)から上諏訪宿(長野県)までに44の宿場がありました。

 


江戸と京のほぼ中央に位置する福島は、江戸時代を通じて木曽の政治・経済的中心地として栄え、関所直下に飛騨街道との分岐点を擁する交通の要衝地でした。

 

関所では、江戸に持ち込まれる鉄砲と、江戸を離れる大名の妻子を「入鉄砲・出女」として取り締まりました。このため、鉄砲と女性が関所を通行するには、特定の発行権者が発行する手形が必要で、記載事項などが厳格に定められていました。

 

これまでも、浮世絵版画や書籍のなかで分からない事が出てくると、現地まで走って見に行っていました。

 

よーし、今回は『関所』を見に行くぞー!

 

家から一番近くて、史跡がありそうなのが「福島関所」でした。

 


 

北の方から(江戸から)旧・国道19号をゆっくりと走りながら、「福島関所」はどこかなぁ~と目で追ってみましたが、分からないまま素通り・・・

 

ん? 何処だ?

 

あっという間に「福島宿」を抜けてしまい、Uターンしてもう一度、南から(京から)街に入っていきます。

 

JR木曽福島駅の前を通り抜け、旧中山道を走ります。

 

上ノ段には袖うだつ格子の民家が残り、わずかに宿場時代の面影を残しています。

 

"関所は宿場の江戸方入口の最東端の上町より約100mの急坂を登り詰めた所にあり、南北に僅か巾36メートル程の敷地の西端は木曽川に臨む断崖で、天然の要害をなし、また関所の建物の背後は険しい関山が防御していた"

 

 

という昔の文言?を頼りに、旧・国道19号を歩いて探していると、急な坂道の上にそれらしきものを見つけました。

 

思わず顔を見上げて、こんな上の方にあったんだ!と驚きました。

 

坂を登り切った後、振り返って撮影した1枚です。

一番左の小さな道が旧中山道です。右手の眼下には木曽川が流れ、その左隣に並走しているのが旧・国道19号です。真ん中の坂道を下っていくと、旧・国道19号まで降りることができます。

 


 

■木曽福島関所跡

 

明治2年(1869年)の廃関後、関所の建物は取り壊され、敷地は民間に払い下げられました。

 

昭和50年(1975年)から行われた発掘調査などを経て、昭和54年(1979年)国史跡「福島関跡」に指定されました。

 

 

現在は、関所跡地に木柵や門などを復元し、史跡公園として管理しているほか、かつての関所の建物を模して建設された福島関所資料館では、当時の通行手形や絵図などを展示公開しています。

 


北の方(江戸)を振り返ると、先ほど走ってきた国道19号の三叉路の信号交差点が見えました。

旧中山道は、まさしくこの道だということになります。

 

旧・国道19号は断崖下に造られており、この高低差(約19m)には驚きました。

 

さて、いつもの浮世絵版画と見比べたいと思います。

 

■歌川 広重作 木曽海道六拾九次之内 福し満

 

「福島宿」は江戸から68里半(269km)、京まで67里(263km)で、中山道六拾九次のほぼ中央に位置していました。

 

徳川家康は、木曽山中の軍事的・経済的重要性に鑑み、ここを幕府の直轄領として、関ヶ原の戦いで功績のあった木曽氏の遺臣山村氏を木曽代官に登用し、山林の管理・福島の関所番に当たらせました。

その後、尾張藩領になってからも引き続き、尾張徳川家の重臣として山村氏が代官職を世襲して「福島関所」を預かりました。

 

「福島関所」は、木曽川左岸の段丘上に形成された狭小な土地に建てられていました。

南側には木曽駒ヶ岳の支脈である関山が迫り、北側は高さ約19mの断崖が木曽川に向かって落ち込んでいます。まさに山と河に挟まれた天然の要害です。

 

広重は、西門から関所の中を覗いた様子を描いています。

関所の周囲には柵が廻らされ、冠木門が構えています。

関所の検問を終えて門から出てきたのは、荷物を両肩に担いだ人足、飛脚、武家の三人。

行き違いで入っていくのは、旅人と両掛荷物を担いだお供の二人。

奥の建物の前では二人の旅人が土下座をして検問を受けています。

 

・1里=3.927km

・冠木門:2本の門柱の頂部に横木(冠木)を渡し、屋根を設けない形式の門

 


■福島関所資料館

 

・開館時間:9時~16時30分

・休館日:毎週火曜日,年末年始

・入場料:「福島関所資料館」と「山村代官屋敷」の2館共通券は、大人550円です。

 


 

■福島関所資料館

 

厳粛な雰囲気が漂っています。

観光客は誰一人居ません。

 

奥の方には、先ほどの西門が見えています。

 

左手は木曽川の断崖絶壁で、関所の前を通過できる空間はこの僅かな幅しかありません。

 

暫しの間、江戸時代を空想してみます。

 

ここで旅人たちは厳しい検問を受けていたのか~

 

 

関所が開門するのは、明け六つ、現在の午前6時頃です。

戸が開き、旅人は関所内の溜りと呼ばれる控え所で人改めの順番を待ちます。

 

写真は上番所の様子です。

 

閉まる時刻は、暮れ六つ(午後6時頃)です。

当時の時刻は日の出、日の入を六つと言ったので、夏と冬では門の開閉時間にズレがありました。

 

 

新居・箱根・福島・碓氷の四大関所のうち、一つの家が関所番を世襲したのは信州福島の山村家だけでした。

 

歴代当主たちの心血の注ぎようは「木曽の民治は返上しても、護関に任は辞せず」という強い意志に裏打ちされたものです。

 

まさに山国木曽にあって街道の要地を守る「関所が命」の武家だったのです。

 

関所では上番20名、下番40名が勤務しており、番所へは上番2名と下番4名を一組として当番をしました。当番以外の役人は、警護・見廻り・使者などに出ていました。

関所門は一昼夜門番が警備しており、夜は交代で番をしました。

最高責任者は代官山村甚平衛です。家老職がこれを補佐しました。山村代官は江戸時代に尾張藩主から木曽谷一円の行政上の支配権を託されましたが、関所破り等罪人の決裁権はありませんでした。罪状の判決は出来なかったので、尾張藩主と江戸幕府に通告してお裁きを待ちました。もし罪人が牢死したときは、幕府から御沙汰を待つまでの間、桶に入れて塩漬けにしておいたそうです。

 

 

そんな山村家管理のもと、福島関所では主に江戸に持ち込まれる鉄砲と、江戸を離れる大名の妻子を「入鉄砲・出女」として取り締まりました。

 

鉄砲と女性が関所を通行するには、特定の発行権者が発行した手形が必要で、記載事項などが厳格に定められていました。

 

 

■関所手形可書載覚

 

展示されている元禄十年(1697年)の覚書は、女改め定め書とも呼ばれ、手形に記載すべき事項が幕府留守居役から伝達されています。

 

女手形の書き方はまちまちでしたが、寛文元年(1661年)に最初の定義が発行され、首や死骸なども必要であると統一されました。

これは3回目の定書です。

 

 

昔の定書は達筆すぎてスラスラと読めないので・・・

隣に展示してある現代の文字で比較します。

 

女性の場合は人数と乗り物の数に加え、髪切や小女などの特徴を記載すること、乱心・手負い・囚人・首・死骸が通行する場合は男女ともにその旨を記し、不審の点があれば改めることなどが指示されており、江戸幕府と福島関所との直接的な関係を知る史料として重要です。

 

 

■関所女手形之内相改覚書取

 

元禄十四年(1701年)に発行された4回目の定書です。髪切の定義を改定したものであり、以後関所が廃止されるまで統一されていました。

 


 

■御嶽講社

 

福島は御嶽山の登山口にあたり多くの参詣者で賑わいました。

信仰の山「御嶽」へ登拝する御嶽講社は寛政年間(江戸時代後期の1789年から1801年)以後に急増しました。

講社の人たちは幟を押し立てて通行しました。

 


 

■判鑑と判鑑添書

 

関所手形を発行する職権のある者から関所へ予め送られてきている印鑑を判鑑といい、判鑑を送るときの添状が判鑑添書です。

 

女手形の発行権者は、江戸から出る女は幕府の留守居という重役が発行し、入女は京都所司代などが幕府から指定されていました。

 

 

■関所女手形

 

関所を通過するには関所手形が必要でしたが、女の場合はなかなか面倒であり、村の役人から領主を通じて予め指定されている関所手形の発行権者から貰っておく必要がありました。

この手形を持って関所に行くと、関所は以前から送られてきている発行権者の印鑑(判鑑)と手形に押してある印鑑を照らし合わせて真偽を確かめた後、相違なければ通行を許可しました。手形の使用期間は発行した翌月の晦日まででした。

 

通行手形や証文は、村の庄屋(村長)又はお寺で発行して貰いました。他領へ行く場合は、本人申請→庄屋→代官所→その国の領主(殿様)の手順です。

江戸から出るときは、幕府の家老、京都から出るときは京都所司代が発行しました。

手数料などの決まりはありませんでしたが、その時代の慣習でお礼(一説で0.5両)と云われております。当時の下級武士は3両もあれば一年間遊んでいても暮らすことができたと云われています。

 


■女改めの実際

 

当時、女の一人旅ということは珍しいことで付き添いの男が一緒なのが普通でした。

女旅人の一行が関所へ到着すると、まず付き添いの男が手形を持って下番所へ行きます。

関所では下番の者が「誰様の御女中でございますか」と先方の苗字を尋ねて、上番の者へ申告します。すると上番は本人から直接手形を受け取って文面その他に不備な点がないか詳しく調べ、その上でさらに印鑑の引合せ(それぞれ規定の手形発行権者の印鑑が関所に控えられてある)を行ないます。

印鑑を符合し、手形にも不備な点がなければ実際の女改めになります。

歩行できた女は多く下番所前で手形の検問が済むのを待っているのが普通で、その縁に腰を掛けたまま下番の足軽が改めます。

女改めの要点は、大小,小女,尼等の区別,髪の模様等を調べる、総ての点が手形の文面通りであれば下番の者が碓氷関所への書替手形判を貰いに月番家老の屋敷を廻り、帰ってきてようやく許可が下り、下番の「通れ」の一言で事済みとなります。この時間、約一刻(2時間)を要しましたた。

 


 

■木曽黒沢村(現・木曽町三岳地区)の女手形に見る女性の旅について

 

木曽の宿村の女性の関所通過は、庄屋から山村家家老宛の女手型で通用しました。

安政二年(1855年)から慶應三年(1867年)までの13年間の女手形の記録から、当時の実態を伺うことが出来ます。

黒沢村から福島関所を通って江戸方面へ向かう女性の旅行目的は、湯治や病気治療、養生が多いことが分かります。これに対し、隣村の宮ノ越村から関所を通って京都方面へ向かう女性の旅行者は、福島宿への年季奉公、福島近くの宿村への嫁入り、里帰り、伊勢参詣や西国巡礼に向かう旅であったことが分かります。

 


 

■女日帰り手形

 

山村家中及び福島宿の女性が所用で隣村へ出向く場合、関所を通過するためには予め配布されている木札を持って通行しました。

 

■人足夜通し手形

 

関所は夜中の通行は原則として許されていませんでしたが、公用の人馬に限り木札を持って通行を許されました。

 

旅行者の他に荷物継ぎ立ての人足や飛脚も通りました。

 


 

■火縄銃

 

当時の最新兵器であった鉄砲の取締りには、幕府は神経をとがらせ関所の通過を厳重に監視しました。

 

鉄砲の関所通過には、鉄砲証明が必要であり、数筒といって数量の多い鉄砲は老中の裏書がなければいけませんでした。

持筒といって威儀護衛のため持参する少数の鉄砲は自分手形とよび老中の裏書は必要ありませんでした。

 

鉄砲不所持の恐れのある箪笥や長持ちなどにも手形が必要でした。

 

 

■皇女和宮の行列警護隊の鉄砲証文

 

「出鉄砲」は所属長官の証文(自分手形)で通過を認めましたが、「入鉄砲」はたとえ一艇でも老中の証文がなければいけませんでした。

 

皇女和宮さまが京都から江戸の徳川家へ嫁いだときの御通行は人足だけで二万人余り、馬三千頭とも云われ、十日間くらい引き切り無しに通ったそうです。行列の先頭から最後尾までは30kmもあったそうです。

 


 

■御免荷物小割手形

 

江戸時代には木材は統制物資であり、領外への移出は厳重に制限されていました。これは「御免荷物」といって藩から特に払下げられた木材

を用い製作された下駄を移出する場合に、製品につけた手形です。贄川御番所宛になっています。

 


 

「福島関所」は、山村家が代々関所を守り抜いてきました。

箱根・碓氷・新居の関所を守る藩主は、配置替えなどで交代したため、昔の慣例が失われることもありました。

一方、関所が廃止になる日まで、一つの家だけで関所を守り続けたのは非常に珍しいことです。

昔からの慣例が失われることなく、念入りに記録として残され、引き継がれてきました。

幕府は福島関所の決まりや慣例などについて、たびたび調査や照会を行いました。

全国の関所でも福島慣例は大事にされていました。

幕府からとても大切にされていたことが伺えます。また、諸国大名たちからも信頼されていたことが分かります。

これは、「福島関所」の大切な特色の一つで、一番最初に『関所』について学ぶには最適だったなと思いました。

 

人びとは文字を使うこと・記録を残すことで、時間や空間を越えてメッセージを伝える知恵を獲得しました。

そして、その時代ごとに生きた知識や文化の蓄積と数多くの記録や書物を残してきました。

「福島関所」は、山村家が心血を注いで守ってきた、貴重な歴史文化資産です。

今回は大変勉強になりました。ありがとうございました。

 


■山村代官屋敷

木曽代官山村氏の下屋敷跡で、現存する一部を公開し、書画などを展示しています。

 


■高瀬家資料館

高瀬家は代々「福島関所」の関所番を勤めた家柄で、島崎藤村の姉、園の婚家としても知られています。

書画や藤村の手紙などが展示されています。

 


旅のはじまりはモーターサイクル。

 

自由への扉をひらこう。