扉の向こうは江戸時代「中山道」広重美術館 秋季特別企画展(中期1)


秋季特別企画展の第二弾! 

①前期につづき、②中期にもやって参りました~

 

今回は日曜日ということもあり、前回の平日貸し切り状態とは違い、館内は団体のお客さんなどで賑わっていました。

 

前回は閉館の間際だったこともありバタバタとしましたが、今回はゆっくりと愉しむことができました。

 

②中期は「小田井~落合」です。

現在のエリアでいうと「長野県北佐久郡御代田町~岐阜県中津川市」になります。

急峻な木曽谷地域を通る木曽路11宿(贄川宿~馬籠宿)を含んでおり、自然豊かな山間の風景美が見どころです。

ツーリングでもよく走るエリアなので、より親近感がわきます。

 

渓斎栄泉が24図を描いた後、歌川広重が引き継いでいるので、②中期は広重の描く作品の割合が増えていきます。

 

江戸時代に成立した絵画の「浮世絵」は、絵師が絹や和紙に直接筆で描く「肉筆画」と、絵師の原画を木版印刷した「版画」に大別することができます。

 

・肉筆画

・版画

 

「木曽海道六拾九次之内」は、多色摺りの浮世絵版画 錦絵に該当します。

 

「錦絵」とは、18世紀半ば過ぎに多彩な色彩を用いた華やかな画が、織物の錦のように美しいということから付けられた名称です。

 

錦絵は版元(地本問屋)によって企画され、

1)絵師(原画を描く人)

2)彫師(木版画の板を彫る人)

3)摺師(和紙に摺る人)

の分業体制で生産されました。

 

完成後は版元の店頭で販売されるだけでなく、絵双紙屋へ卸されるなどして江戸の市中に広く流通しました。

 


 

◆秋季特別企画展

 

 出版190年記念 渓斎栄泉・歌川広重

 木曽海道六拾九次之内

 摺り違いの愉しみ

 

 ①前期:2025年8月28日~9月28日 日本橋~追分

 ②中期:2025年10月2日~11月3日 小田井~落合

 ③後期:2025年11月7日~12月7日 中津川~大津

 

 3期全点入れ替え

 18年ぶり全点公開&徹底比較

 


 

■中山道広重美術館

 

円熟期の広重が中山道を描いた「木曽海道六拾九次之内」など、浮世絵版画を中心に収蔵しており、ほぼ毎月入れ替え展示。模擬版木を使った重ね摺り体験も人気。

 

午前9時30分~午後5時(入館は4時30分まで)


 

落ち着いた館内で「錦絵」を眺めながら"時間旅行"という空想の旅に出掛けます。

 

この「錦絵」が流通していた江戸時代、庶民はどんな暮らしぶりだったのでしょうか?

 

木曽海道六拾九次之内のシリーズは、今から190年前の天保六年(1835年)頃から出版が始まったと云われています。

 

190年も昔に商業出版物として大量生産されていたなんて・・・

 

 

木曽海道(中山道)の歴史について考えてみると・・・

 

関ヶ原の合戦で勝利した徳川家康が、全国支配のため江戸と京を結ぶ街道を整備し始め、2代将軍秀忠の代になって基幹街道に定められました。

 

・慶長五年(1600年)関ヶ原の戦い

・慶長六年(1601年)「伝馬朱印状」を交付し、江戸と各地を結ぶ5つの街道を整備

・元禄七年(1694年)中仙道全ての宿駅69次が完成

・享保元年(1716年)中仙道から中山道に名称統一

・享和二年(1802年)十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』出版

・天保四年(1833年)保永堂の『東海道五十三次』出版

 

徳川幕府は、武家諸法度というきまりを作り、全国の大名を取り締まりました。

その中には大名は毎年4月に参勤交代することとあり、これを制度として整えたのが3代将軍家光です。

 

◆参勤交代:諸大名が行列を組んで領地と江戸の間を行き来することで、一定期間江戸に住まわせる制度

 

この参勤交代によって諸大名の財政を圧迫し、徳川幕府に刃向かう力を付けさせないようにしました。

これにより江戸時代は国内でもほとんど合戦がなかった平和な時代になりました。

 

また、この時代の代表的な政策の一つとして「鎖国」があったことも挙げられます。

 

こうした参勤交代をきっかけとして、街道の整備により宿場まちが栄え、日本全体の交通整備,文化交流,経済効果などの底上げも図られました。

 

 

家康による開府以来200年以上が経ち、泰平の世が続く中、日本経済は発展していきました。

 

そして「木曽海道」は交通環境の向上により、参勤交代の大名行列だけでなく庶民までもが街道を利用することになりました。

 

庶民が旅や行楽へとそのエネルギーを振り向ける余裕が生まれたのです!

 

 

■歌川 広重 作 木曽海道六拾九次之内 下諏訪  

 

さて、どこを旅するかな?

 

よし、温泉に行こう!

 

「下諏訪宿」は、木曽海道で唯一の温泉地だったようです。

 

宿場まちの旅籠屋の内部を描いた図からは、湯治を兼ねて旅行に出掛けているのが分かります。

 

奥の部屋では宿泊客が湯につかって旅の疲れを癒しています。

手前の座敷では、手拭いが壁に掛けてあり、湯浴びを済ませた男たちが夕食をとっています。

団体様でしょうか?一人の男が着物の女性に対し"ご飯のお代わり~"と言って左手でお椀を差し出しています。

 

摺り違いでは、座敷の床の色が緑色から黄色へ、女性の着物の色が紫色から藍色へと変化している様子が分かります。

 

しみじみとした旅情が伝わってきますね~

 


自分もこのエリアは大好きなので、諏訪湖周辺の温泉にも出掛けます。

 

諏訪湖から県道40号を北方に向かえば霧ヶ峰へ。

そこから先はビーナスラインで和田峠や美ヶ原へ。

または、白樺湖から白樺高原や蓼科へ。

南方の国道152号からは杖突峠へ。

キャンプに温泉、ワインディングといっぱい楽しめるエリアです。

 

2025年5月に中央道 諏訪湖サービスエリア「ハイウェイ温泉諏訪湖」の閉店が発表されました。

施設の老朽化や利用者の減少によって2026年1月までに閉店するとのことです。

 

ツーリングの帰り道にこの温泉に入ったことや風呂上がりに初対面のビューエル(ユリシーズ)乗りのおじさんと談義したことなどが思い出されます。

 

なんとも寂しいですね~

 

江戸時代の旅人たちは、1日当たり30~40kmほどを徒歩で移動していました。

江戸から京までの中山道69宿(約534km)を14~18日かけて旅をしたと云います。

 

いま現在だと、車やバイクで中央道を走っても1日あれば、いや8時間余りで移動できるでしょう。

 

ということは、1日10時間歩いたとして・・・

・江戸時代:18日×10時間=180時間

・現代:8時間

180時間が8時間に短縮!

なんと23分の1まで圧縮されたことになります。

 

東海道新幹線のぞみ号なら約2時間

180時間が2時間に圧縮!

わずか90分の1にまで圧縮できます。

 

逆に言えば、江戸時代よりも90倍のことを人生で成し遂げることができる!?

 

そりゃわざわざ高速道路のサービスエリアに寄ってまで温泉には入らないか・・・

 

なんだかここに、せわしない日々の生活に追われる現代人の心の疲れや余裕の無さを感じますね。

 

現在とは違う時間の流れの中を生きていた江戸の人達は"ゆとり"を持っていたのかな?

 


 

■歌川 広重 作 木曽海道六拾九次之内 贄川

 

「贄川宿」は現・長野県塩尻市のこと。

宿泊客を迎える旅籠屋の様子が描かれています。

「下諏訪宿」から「贄川宿」の区間距離は約32kmなので1日分の移動距離といえます。

寺社参詣や湯治を兼ねた旅行者が立ち寄っているのかな。 

 

面白いのは、現代で言うところの広告・コマーシャルが入っています。

軒先には、江戸京橋の坂本氏が販売した白粉の宣伝「仙女香 京ばし坂本氏」、本図の彫師「松島 房二郎 刀」、摺師「摺工 松邑 安五郎」「仝 亀多 市太郎」を記した札が掛かっています。

 

この錦絵が国元へ帰る際のお土産だけでなく、広告媒体としても出版流通していたかと思うと、版元の販売戦略も見え隠れしてきます。

 

■仙女香とは・・・

江戸京橋(南伝馬町稲荷新道)の坂本屋から売り出された白粉のことです。

名前の由来は、歌舞伎俳優三代目瀬川菊之丞の俳名「仙女」からとったといわれ、効能書には「常に用いて色を白くきめ細やかにす。にきび顔のできものに妙なり」とあります。

「仙女香」は浮世絵の草双紙にも出てくるし、「仙女香」の畳紙が歌川国貞や渓斎栄泉の美人画の中にも出てくるので、坂本屋は絵師や版元に頼んで宣伝をして貰っていたのです。

 


 

摺り違いの愉しみ方の一つに、版元の違いを探すことができます。

空や地面、遠景やぼかし摺りの色の変化に気付くことができますが、よーく見てみると、

図の中にある笠、馬の腹掛や尻掛、提灯などの文字にも変化があります。

 

出版に関わった版元は次の3軒です。

 

①竹内孫八

 号:保永堂 略称:竹孫

 店舗:江戸霊岸島塩軒

 営業期間:天保3年(1832年)~天保11年(1840年)頃

 

②伊勢屋利兵衛

 号:錦樹堂 略称:伊勢利

 店舗:江戸池之端仲町

 営業期間:寛政二年(1790年)~明治十二年(1879年)頃

 

③山田屋庄次郎

 号:錦橋堂 略称:山庄

 店舗:江戸京橋中橋広小路 

 営業期間:嘉永四年(1851年)~慶応二年(1866年)頃

 

版元とは、浮世絵版画を出版するお店で、今で言うところの出版社です。

企画・制作・販売を統括していました。

 

街道を主題とする風景画は、長期的な販売が可能であったため、増し摺りに伴う複数のバリエーションが存在します。

第1版を「初摺」、第2版以降は「後摺」と呼ばれます。

後摺では版木の摩耗によって輪郭や文字、印章などの線が潰れる他、色版の油分が無くなるため顔料が乗り過ぎて重くなったり、摺りが簡略化されていきます。

また、主版や色版が修正,変更,追加され、図柄が異なる「異版」が制作される場合もあります。

企画作品の版権も他の版元へ移譲されたり、稿料を巡る問題などもあったのかな?

 

版権が移り、再販された③山庄の後摺の簡略化は、初版の①竹孫に比べて印象が変わるものもありますが、その年代が求める色彩の需要に応える必要があったのかな~とも思います。

 

現代でも少し前までは*十年一昔なんて言葉がありました。

今だとそれは3年くらいに圧縮されたの感覚なのかな。

 

*十年一昔:世の中の移り変わりが激しく、十年も経つと昔のこととなってしまう。 

 

続きの、③後期「中津川~大津」の話しは、また今度。

 


旅のはじまりはモーターサイクル。

 

自由への扉をひらこう。