中山道六拾九次「奈良井宿」【中村邸】


 ■歴史が宿る街並み

 

木曽街道十一宿中、一番の賑わいだったと云われる「奈良井宿」

「奈良井宿」は古く鎌倉時代から宿駅としてその名を広く世間に知られていました。

中山道のなかでも屈指の大宿で、俗に奈良井千軒と云われていました。

時の流れによってその形態は変わっていきましたが、現在でも昔の面影を残していることは、全国でも稀にみる貴重な存在といえます。

 

現在、街並みは往時のままの姿で保存されており、国の重要伝統的建造物群保存地区(町並み保存地区)に選定されています。古い街並みの中に現代の生活が上手く溶け込んでおり、全体的に宿場情緒が色濃く漂っています。

 

歌川広重の描いた浮世絵版画を通じて、中山道六拾九次のことを勉強しているうちに、書籍やパンフレットで「奈良井宿」の風景写真を目にしました。

 

いまでもこの風景が残っているのかな?

 

現代の木曽路といわれる国道19号は、これまで幾度となく走ってきましたが、「奈良井宿」という標識を横目に見るだけで素通りしていました。

 

 

暫くの間、あの写真の風景が気になっていました・・・

 

ある平日の朝のこと「福島宿の関所」に向かって走っていました。

 

時間が早かったこともあり、行き先を変更して「奈良井宿」を目指すことにしました。

 

やっぱり、自分の目で見に行こう!

 


■中山道 奈良井宿


中山道 奈良井宿は、江戸の日本橋から数えて三十四番目の宿です。

 

 信濃国(現・長野県塩尻市)

 人口:2155 総家数:409

 本陣:1 脇本陣:1 旅籠屋:5

 

慶長7年(1602年)徳川家康により中山道の宿駅が定められる中で、奈良井も宿駅として幕府関係者など公用旅行者や参勤交代の大名通行のために人馬を常備し、要請に応じて人馬を提供する義務や、通信の業務を果たしました。


■渓斎 栄泉 作 木曽海道六拾九次之内 奈良井宿 名産店之図

 

木曽海道を象徴する険阻な峠風景と共に「名物 お六櫛」の制作販売を行う店を取り上げています。

「奈良井宿」と「藪原宿」の間にあった鳥居峠へ登りきる手前に峯の茶屋があり、ここに数件の茶屋が建っていました。栄泉はこの茶屋の一軒を名産「お六櫛」を売る店に仕立てて、峠から見える御嶽山も引き寄せてこの絵を構成しました。

「お六櫛」の由来は、昔吾妻村に「おろく」という娘がおり、頭の病を治すために御嶽山に願を掛けたところ「ミネリバ」の木で櫛をつくり、これで朝夕に髪を梳けば治るとのお告げを賜ったことにあります。その後、病は治り、ご利益を分け与えようと櫛を作って売ったのが「お六櫛」の始まりです。

「名物 お六櫛」の看板を掲げた店の中では、主人が櫛を挽き、女房が旅人に櫛を売っている様子が描かれています。

 


 

国道19号沿いにあった道の駅「奈良井木曽の大橋」からアクセスしました。

 

曇り空でひんやりとした空気のなか、奈良井川に架けられた桧造りの太鼓橋を渡り、中央本線の踏切を越えて、旧中山道まで歩いていきます。

 

 

数分で旧中山道に到着です。

 

おっー!

 

この雰囲気は凄いぞ!!

 

突然、江戸時代にタイムスリップしたような気分になりました。

 

観光客が居ない時間帯なのか?人はほとんど見当たりません。

 

雨上がりの街並みがしっとりと美しく、とても静かで心が落ち着きます。

 

近くにあった水場の案内図を見ると、ちょうど宿場まちの真ん中あたりの中町に出てきたようでした。直感で上町の方(南)へと歩を進めます。

 

旧中山道の「奈良井宿」は、南側の鳥居峠上り口にある鎮神社を端に、北側に向かって奈良井川沿いに緩やかに下りつつ約1kmに渡って街並みを形成する、日本最長の宿場まちです。

 

 

街道に沿って出梁造り・格子窓の家並みが左右に整然と続きます。

 

旅館,民宿,土産物屋,食事処,甘味処が昔ながらの名残を留めています。

 

時間が早いのか?どこも店が閉まっており、街はひっそりとした静けさに包み込まれています。

 

中町と上町の間には"鍵の手"がありました。

 

これは以前、中山道「大湫宿」で学んだ、宿場内に造られた街道の屈曲で、敵の直進を防御するための施設です。

 

上町を進んでいくと、これは明らかに江戸時代のものだろう・・・と判る建物が出てきます。

 

その内のひとつ「中村屋」という建物の前でふと立ち止まりました。

 

障子には「中村屋 御櫛所 利兵衛」と書かれています。

 

 

開館中という小さな木札が掛かっていますが、何だか入りにくい雰囲気が漂っています。

 

一旦は引き下がったものの、どうしたものかと思案した後、思い切って障子の戸を開けてみることにしました!

 

 

戸をズズっと横に開くと、奥には真っ暗な空間が広がっていました。

 

"おはようございます。開館中ですか~?"と声を掛けてみると、奥から"どうぞ~"の返事が聴こえてきました。

 

土間の右手には受付があり、女性の管理者が1名居られました。

 

"ここは190年前の建物で中村利兵衛の塗り櫛の櫛卸問屋です"と教えてもらいました。

 

咄嗟に、渓斎栄泉の浮世絵版画のことを思い出し"あっ、お六櫛ですね~"と答えると、

"お六櫛は木祖村の方で作られており、塗り櫛はここ奈良井の名産品なんです"とのこと。

 

"えっ?お六櫛と塗り櫛って違うんですか?"と答えると、

"お六櫛は髪を梳くための木櫛のことで漆は塗られていません。塗り櫛は木櫛に漆が塗られた髪を飾るための飾り櫛です"とのこと。

 

この会話がきっかけとなり、約1時間半「中村屋」に滞在することになりました。

この間、他のお客さんは誰一人来店せず、マンツーマンでガイドを受けることができました。

 

チャンスがあればガイドさんの説明は必ず聴くように心掛けています。

ただ見て廻るのと、ちゃんと説明を聴いて興味を持って観るのでは、雲泥の差があります。理解度が劇的に変わってくるのです。

今回も興味深い歴史の話しを聴くことができ、とても勉強になりました。

 

 

塗櫛とは、木櫛に漆を塗った飾り櫛として、江戸時代に一世風靡した逸品です。

 

当時の日本女性の7~8割の髪を飾ったと云われています。時代や用途によって様々な形が流行したそうです。

 

 

塗櫛の他にも髪を飾るものとして、笄(こうがい),簪(かんざし)も多く生産されました。

 

塗櫛は中山道を行き交う旅人達によって、手軽な土産物として全国に知れ渡り、木曽の名産として江戸・京・大坂をはじめ全国的に需要が拡大し、商売は大繁盛しました。

 

特に、江戸時代中期~後期の寛政年間(1789年~1801年)に蒔絵や錦絵に施されると、江戸の花柳界、御殿女中の評判となり、庶民にも広がって爆発的なヒット商品となりました。

大坂商人の中には大量に買い付けて、隣の清国へ輸出する者までも現れたと云われています。

 

文政から天保(1818年~1844年)の宿場の全盛期には、奈良井の上町を中心に、櫛作り工房が60~70軒,塗屋が20軒,販売問屋が7軒ありました。

 

天保14年(1843年)頃の「中山道宿村大概帳」によれば、木曽十一宿の中でも総家数は409軒と最も多かったにもかかわらず、旅籠の数はたった5軒と圧倒的に少なく、旅籠を専業とするのではなく、櫛生産など他の生業が主であり、大名行列など大通行の際には臨時的に旅籠として使われていたことが分かっています。

 

奈良井は檜物細工,塗物,塗櫛などの木工業等によって、多くの収入を得ていました。

木曽谷の住民に尾張藩より下賜された白木御免木6000駄中の4分の1にあたる1500駄が奈良井に充てられており、生産量も群を抜いていました。

 

木曽地方において櫛づくりが木工細工の目玉の一つになった背景には「ミネリバ」や「ツゲ」などの櫛木地に適する木材に恵まれていたことが挙げられます。

 

塗櫛の創始者とされる中村恵吉は、寛保・延亨年間(1741年~48年)に下伊那郡清内路で櫛挽きの技術を修得して帰り、その製造販売に従事した人と云われています。

 

当時、奈良井は漆器製造地であったので、試しに木櫛に漆を塗り、塗櫛として販売したところ、人々の目にとまり、街道を旅する人々によって、手軽なお土産として全国に知れ渡りました。

 

中村利兵衛は、奈良井に塗櫛を産業として根付かせたと伝わる中村恵吉の次男で、恵吉家から分家してここに住まうことになりました。

 

天保の豪商となった中村邸は、奈良井の大火の後、天保8年から14年(1837~1843年)の間に建築されました。間口が狭く、奥行きが深い造りで、奈良井の町家の典型といえます。出梁造りになっていて、正面は蔀(しとみ)になっています。

 

奈良井における19世紀の塗櫛の生産は、この地域の地場産業の中核となりました。

当時の住民の職種を記した明細図には「櫛商人」「櫛屋」「櫛細工師」「櫛挽」などに分類されていたことが分かりますが、現存するいくつかの軒看板に「櫛卸所」と記されており、問屋機能を持ちながら製造も行なうといった製造問屋であり、その一つがこの中村利兵衛家であったといえます。

 

明治時代には、塗櫛の製造にかかわっている家が60軒ほど、それらをまとめる問屋が7~8軒あり、問屋は材料を仕入れて、木地師,塗り師,蒔絵師など分業をそれぞれの家に仕事を出し、完成品とするまでの段取りをつけていました。

 

大正時代に入ると、奈良井で木地、塗りを施し、東京でつまみ細工をして仕上げました。

これが、島崎藤村の「初恋」で知られる「花櫛」ですが、大正末期には姿を消してしまいました。

 

 

明治・大正と女性の髪形の変化や挿し櫛の需要などの減少により、隆盛を極めた奈良井の塗櫛の産業も、戦後ついにその生産は途絶えることとなりました。

最後まで残っていた、赤い塗櫛の軒看板を掲げた「松坂屋」も数年前には閉店してしまいました。

 

木造で燃えやすい建物が連なる宿場まちは、頻繁に大火に見舞われており、寛政8年(1631年)から文久2年(1862年)までに、記録に残っているだけでも21件の火災が発生しています。

 

中村邸は天保8年(1837年)の大火の直後に建てられた建物になります。

これ以降は特に大きな火災も無く、江戸末期の形式を多く残した町家が残ることになりました。

 

明治時代(1858年~1912年)以降には洋風の建築が建ち始め、昭和40年代には建物の高さが高い建物も建てられるようになりました。

 

中村家も戦後には他所に転居してしまい、この中村邸は空き家となりました。

 

その後、空き家の維持管理も大変なことから、昭和44年(1969年)木曽郡へ郡名変更する前の楢川村(旧・西筑摩郡)に対して、中村家住宅を神奈川県の「川崎市立日本民家園」へ移築する計画が伝えられました。

 


■川崎市立日本民家園


 

移築計画の話しが持ち上がったときに、村人たちは自分達が暮らしている奈良井の宿場町の重要性、古民家に対しての歴史的価値があることに気付かされました。

そして、中村氏の理解と地元の努力によって現地保存という最良の方法が検討されることになりました。

 

中村邸の宿場外移設問題を契機に、身近な歴史的資産の再確認と継承、維持を目的にした官民学連携による町並み保存運動が、他に先駆けて始まりました。

 

村としては現地での保存を目指し、交渉した結果、敷地・建物が中村家より楢川村に寄贈されることとなり、昭和48年~49年に修理整備事業が行われ、以降中村邸として一般公開されることになりました。

 

この議論を契機に、楢川村と奈良井地区では町並み保存への機運が高まり、昭和49年~50年に奈良文化財研究所と村による町並み保存対策調査が実施され、その成果により昭和53年に、奈良井地区は重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に選定されることとなりました。

 

それ以後、平成17年に塩尻市と合併し、平成30年に重伝建選定40周年を迎えるにあたり、塩尻市教育委員会では重伝建による保存の契機となったこの旧中村家住宅の文化財的価値を検証する調査を実施し、その価値が国により認められ、令和2年12月23日、主屋・土蔵が重要文化財に指定されました。

 


■重要伝統的建造物群保存地区

 

文化財保護法の中に定められる「伝統的建造物群保存地区制度」によって町並みが保存されている地区です。町並みとして保存していくため、保存地区内では、新築、増改築、修繕、色彩変更等、外観に影響する現状変更に関しては許可が必要です。

また、伝統的な建築物はその特性を維持するため変更に際しての規制があり、新築に際しても周囲の町並みと調和するよう様々な基準が設けられています。

 


■中村邸(国指定重要文化財 旧中村家住宅)

 

・開館時間:4月~11月 9時~17時、12月~3月 9時~16時

・入館料:500円

 


 

■旧中村家住宅の特徴

 

①第一に、移築問題により重要伝統建造物群保存地区奈良井の町並み保存の契機となった象徴としての建造物であること。

 

②第二に、史資料により生業や敷地建物の来歴が明確で、当地方における宿場町の一般的な規模の敷地形態をよく残していること。

 

③第三に、塗櫛を商うだけでなく、敷地内で漆塗りの作業を行うとともに、必要に応じて旅籠機能を果たしていたことを具体的に示していること。

 

当地方の宿場町の経済活動を明らかにするものとして極めて価値が高いと評価されました。

 


●主屋 1棟

・建築年:天保14年(1843年)頃

・構造形式:木造2階建、切妻造、平板、鉄板葺、桁行6.1m、梁間17.2m

 

●土蔵 1棟

・建築年:主屋と同時期

・構造形式:土蔵作造、2階建、切妻造、平板、鉄板葺、桁行4.1m、梁間5.3m

 

片側に正面から背後に通じる土間と、ミセノマ・カッテ・ナカノマ・ザシキの1列4室の居室列からなり、1列型町家の間取りをもっています。

表構えは、1階土間正面の潜り戸付きの大戸、ミセノマ前面の上下3枚の蔀戸を残しています。

 

2階の縁部分が出梁によって1階より前に張り出す、この地方の呼称である出梁造りとなっており、奈良井の表構えの特徴ともいえる出梁の先端の桁に横板を猿頭と呼ばれる桟木でおさえた小屋根と通称する板庇を付けています。

さらに、主屋2階のオモテニカイの床板には朱色・黄色・緑色・青色・黒色などの漆の痕跡があり、そこで様々な色の漆を使用する加飾等の仕上げの塗りの作業が行われていたことがわかりました。

 


「中村邸」は190年前の建物で国指定重要文化財ですが、自由に部屋を見学することができます!

 

 

■主屋 1階 土間(オモテ側より)

 

主屋は、間口3間2尺(6.06m)、奥行き9間半(17.2m)の規模で、通り土間に沿って、ミセノマ・カッテ・ナカノマ・ザシキの4室が1列に並んでいます。

 

主屋の背後には厠があり、廊下で連絡しています。裏庭には土蔵が建っています。

 

この薄暗い土間の突き当りに、秘密の扉?がありました。

 

 

■主屋 1階 土間(ウラ側より)

  

土間の左手には、1階のザシキから2階のウラニカイに上がる階段が見えます。

 

この扉には「開放禁止」の張り紙があり、ザシキから見た時に、あぁ外には出られないんだな~と勘違いしていました。

開放しておくと裏山から猿が入ってくるので、開けたら閉めておくという意味でした。

 

帰り際に、管理人さんから"裏庭の蔵は見学されましたか?"と言われ、

"えっ?奥も見れるのですか?"と答えて、靴を履いたまま暗い土間を通り抜け「開放禁止」の扉を開けると、裏庭から光が差し込んできました。

 

良かった~ 最後に教えてもらえて。そのまま退散するとこでした・・・

 

 

■裏庭

 

土蔵から主屋をみた風景です。

左側に見えるのが厠です。

主屋1階のザシキの縁側から廊下で繋がっています。

真冬に厠へ行くのはとても寒そうですね。

 

 

ふと昔の記憶が蘇ってきました。

子供の頃、母の実家が和菓子屋さんで、この町家のような古い造りでした。

トイレとお風呂は離れにあり、長い土間を通り抜けて、裏庭に出ていました。屋根が無かったので雨の日は傘を差して。真冬のお風呂上りは走って母屋へ駈け込んでいました。夜は真っ暗になって怖かったなぁ~

 

 

■主屋 1階 カッテ(勝手)

 

子供の頃、オカッテ(お勝手)とかダイドコロ(台所)と呼んでいたことを思い出しました。

 

カッテとは、江戸時代以降の日本家屋において、食事の準備をする台所や厨房を指す言葉です。勝手(都合)のよい場所から名付けられました。

 

竈(かまど)は以前、土間に置かれていたそうですが、煉瓦が入ってからは、囲炉裏の前に移されたようです。

 

このカッテも母の実家を思い出します。表には和菓子の店舗があって、土間を通り抜けると和室の部屋があり、その次に台所がありました。台所は土間から1段上がっており靴を脱いで上がっていました。さすがに竈や囲炉裏ではなくキッチンが入っていましたが・・・

 

この囲炉裏で鍋を吊るす際に必要になるのが、自在鉤(じざいかぎ)です。

てこの原理で長さを調整することができ、煮炊きする鍋と火の距離を調整するとのことです。

自在鉤は松竹梅で表現されており、この横木は縁起物の扇型のデザインになっています。

"横木は魚型のデザインが多いですよ"と教えてもらいましたが、これまで気にしたことも無く、じっくりと観察するのは初めてのことでした。

自分にとっては、日本昔ばなしの世界です。

 

魚型のデザインは、魚は水のものなので火を避ける(火事にならない)、魚には瞼がないので常に目を見開いている(目を離さないで火の番をする)という意味の火事除けのお守りです。

 

江戸時代の言葉文化というのは、粋というか洒落というか、ユーモアが詰まっていますね。

 

 

■主屋 吹き抜け

 

カッテの上部は吹き抜けとなっていて、梁組や小屋組が見えます。梁は内法より高い位置で井桁に組み、交点に小屋束を立てて貫で固め、母屋・棟木を受けています。

 

昔はカッテで煮炊きをしていたので、煙があがって燻されていたので、持ちが良かったそうです。

 

 

■主屋1階 ナカノマ(中之間)

 

ナカノマからザシキを抜けて、一番奥にある階段から2階のウラニカイに上がることができます。

 

ウラニカイに上がると、様々な史料や塗櫛,簪(かんざし),笄(こうがい)などの展示物を間近でみることができます。

 

 

■主屋1階 ザシキ(座敷)

 

奥座敷は、取り壊されていたものを史料に従って復元されたようです。

落ち着いた雰囲気ですね~

 

 

■ 主屋1階 ミセノマ(店の間)

 

現在の受付がありますが、ミセノマにも入ることができます。

 

江戸時代にはこのミセノマに塗櫛を並べて販売していたそうです。

 

 

渓斎栄泉の浮世絵版画にある「奈良井宿 名産店之図」のように、蔀(しとみ)は全て取り外してフルオープンにすることが出来るそうです。

 

 

蔀(しとみ)を初めて見ました!

 

ここ奈良井は、冬はマイナス15℃くらいまで冷え込むそうです。 

障子のままだと寒いし不用心ですね。夜はどうしているんですか?と尋ねると、"板戸を閉めます"と言って、目の前で実演してくれました。

 

板戸を閉めたとしても、外国人旅行者には信じられない!と驚かれるそうです。これでは泥棒や強盗に忍び込まれるのではないかと・・・

 

この建物は国指定重要文化財のため、改修などは出来ないそうですが、他の建物は格子風の外観を維持しながら、居室側にガラス戸が入れてあり、防犯対策や空調対策が施されているそうです。

 

 

蔀(しとみ)は内法を三分割した大きさの建具で、中央部は障子と入れ替えて明かりを取ります。

上1枚をはねあげ、下2枚を取り外して、その上に収め、縦軸の方位も取り外せば、ミセ(店)の全面はまったくの開放となる仕組みになっています。

 

使用部材は木と紙のみ。かんぬき錠も木の棒です。縦軸の方位に溝を切り込ませ、その溝に沿って戸を入れるという構造です。 必要最小限のパーツで、組み合わせは自由自在。

昔の大工さんの考え抜かれた技術に感服いたします。

 

 

外した障子や板戸はどうするんですか?と尋ねると、"ここに収納できますよ"と言って、天井から吊り下がった棚に仕舞ってくれました。

 

生活の知恵というか、考え抜かれているなぁ~と感心しました。

 

 

■箱階段

 

箱階段で2階のオモテニカイに上がることができます。

初めて箱階段に乗ることができました。

ちょっとした感動です!

 

江戸時代の初め頃に登場し、階段下のスペースを有効活用する目的で、引き出しや戸棚が取り付けられていました。

 

 

箱階段の一番下の戸棚には、オモテニカイで塗り終えた櫛を並べて乾かしていたそうです。

 

漆は適度な湿気を与えることで乾く性質があり、湿気を加えていたそうです。

 

 

2階で漆塗り作業をする際などは、下から埃が上がらないように、スライド式の板戸を閉めていました。

ここでも実演してくれました。

まるで忍者屋敷のような仕掛けが満載の建物です。

 

 

■主屋2階 オモテニカイ(表二階)

 

階段を上がってすぐの茶室は、来客用や商談などに使っていたようです。

 

畳を上げると板の間に早変わり。作業場になります。床版には漆塗りの痕跡があるそうです。

 

 

■オモテニカイ 奥の間 襖絵

 

客人をおもてなしするために、上段にある襖絵が見やすい角度に傾斜が付いています。

 

季節ごとに絵を愉しめるよう両面リバーシブルになっており、裏表の入れ替えができます。

 

う~ん、凝っているというか粋な計らいですね!

 

 

 

■オモテニカイ 茶室

 

主屋は、2階床大引を胴差より前面に出す出梁造の構造です。

2階正面は全長20尺を4等分し、各柱間に連子風の格子が入っています。

この出梁造りのお陰で、1階ミセノマの蔀(しとみ)が障子でも雨には濡れないそうです。

 

 

■格子 

 

2階の格子の縦の材は菱形(斜め45度)です。

ここ奈良井では、中村邸のみの珍しい仕様です。

 

漆塗りの作業には採光が必要なことから、菱形に取り付けてあります。斜め方向から光を取り込み、正面からは見えにくい仕組みです。

 

細かな技術が光りますね~

 

 

■屋根

 

かつては板葺石置屋根でした。屋根勾配は3/10ほどで緩く、軒の出が深い造りになっています。

 

■出梁

 

出梁により中二階部分が前方にせり出していることは、奈良井の町家の外観を構成する最も特徴的な要素です。実際には、二階の外縁としての機能を持つものですが、深い軒を支える役目も果たします。

 

■小屋根

 

奈良井宿の特徴にあげられる造作であり、庇は下面に段状の切り刻みをつけた桟に、板を下から釘で打ち付け、鉄棒などで釣ります。このような形式の庇を鎧庇、桟を猿頭と呼びます。猿頭という名称は、桟の上面が水切りのため三角形状にとがらせてありその形が猿の頭に似ていることによります。

軒中央部の柱に看板を吊るす飾屋根を付けています。

ミセノマの二階は登梁を用いて天井を斜めに張っています。

 

 

■大戸と潜り戸

 

1階正面の出入り口は片開き大戸です。

戸は両端の柱・土台・胴差または楣で作る間口部の内側に釣り込まれ、正面隅柱の内面の上下2か所の釣金具によって回転します。

開閉方法はこの他に上部にはね上げるもの、片方に引き込むものがあります。しかし、大戸を全て開けるのは、祭りやその他の特殊な場合で、普段は潜り戸により出入りします。

潜り戸は、昼間は障子立てにして、外部からの採光を意図しています。夜間は板戸を閉めます。

 

 

■土蔵

 

人生で初めて蔵に入りました!

 

蔵は商品保存用の建物であり、周囲を土や漆喰などで塗り固めてあり、防火対策が施されていました。

 

この地方では、蔵は倉庫ではなく漆職人にとって櫛に漆を塗る作業場として使われていました。

漆は適度な湿気を与えることで乾く性質があり、室内に湿気を加えて、棚に櫛を並べて乾かしました。

 

現在は、塗櫛や簪(かんざし),笄(こうがい)などの展示物を間近でみることができます。

 

 

蔵の中の箱階段です。

2階に上がれないように板戸が閉まっていました。

 

主屋のミセノマで、天井にある板戸を開け閉めする実演を見ていなければ、気付かずに素通りしていたかも知れません。

 


 

■婦人の心得帳

 

文政年間(1818年~1831年)に発刊された心得帳です。

教養書であり、女性の心得や教訓礼法などが書かれた版本です。

女性の髪の結い方も載っており、櫛(くし),笄(こうがい),簪(かんざし)といった道具の使い方を知ることができます。

 

こういった教養書の原画が版木で製作されて、大量に増し摺りし、製本して出版する。今で言うところの教科書や書籍、ファッション雑誌のようなものでしょうか。

 

江戸時代後期にあたる文化・文政時代は、江戸を中心に出版ブームが到来しますが、それを支えた版元,摺師,絵師も凄いと思いますが、全国津々浦々の識字率の高さや読書熱の凄さにも驚かされます。

 

 

■製作用具

 

職人さん達が愛用していた、創意工夫に満ちた製作用具が残されています。

 

 

■塗櫛の見本

 

塗櫛には「大月型」「鎌倉型」「月型」「京型」「京丸型」「利休型」「びん型」「細びん型」「角びん型」「たぼ型」「牡丹型」「おはつ型」「お婆さん型」などがあります。

 

江戸時代、盛んに製造された塗櫛は、主な購買者は庶民でした。そのため、出来るだけ手間を掛けず、大量生産が可能で、尚且つ装飾的な効果が高い意匠を凝らす工夫が求められました。浮世絵版画の増し摺りと同じ考え方ですね。

 

例えば、木製の版木で金属箔の文様を刷り、櫛の表面に貼ったもの。印判を用いて漆絵を描いたもの。更に、その上から金銀の模造粉を蒔き付けたもの。金型で金属模様を鋳造し貼り付けた金貝と呼ばれる技法のもの。そして、文様を錆上げして箔を貼ったもの。ノミで文様を彫り込んだものなどがあります。

 


 ■江戸時代を求めた先に、出逢えたものは・・・

 

潜り戸をくぐる。

190年前の邸宅に上がる。

箱階段を登る。

蔵の中に入る。

浮世絵版画のなかで見てきた江戸時代の世界に触れる。

時空を超えて江戸時代の貴重な文化に接する。

 

管理人さんとミセノマで雑談するなかで、

実は、入口の障子が閉まっていたので、中に入るのを躊躇していました・・・

という話をしました。

表の中山道では、旅行者の気配を感じていたのですが、誰ひとり観覧には来ませんでした。

あの「潜り戸」が開いてると、お客さんも入りやすいと思うんですけど、開けておかないんですか?と尋ねると、

"夏場は風通しを良くするために開けることはありますが・・・でも、あの「潜り戸」は自分の手で開けて、中に入ってきて欲しいんですよ"と言われました。

 

ちょっと分かる気がします。

たった障子1枚のことなんだけど、未知の世界に飛び込むというのは、ちょっとした勇気が求められます。

この先を見てみたい!という探求心に駆られて、自発的に行動しない限り、自分の世界観は広げられないですよね。

 

思い切って「潜り戸」を開けてみて良かったです。

貴重な経験を積むことができました。ありがとうございました!

 


旅のはじまりはモーターサイクル。

 

自由への扉をひらこう。