中山道 大湫宿は、江戸の日本橋から数えて四十七番目の宿である。
美濃国(現・岐阜県瑞浪市)
人口:338 総家数:66
本陣:1 脇本陣:1 旅籠屋:30
■歌川 広重 作 木曽海道六拾九次之内 大久手
「中山道広重美術館」のお土産ショップで購入した『中山道地図』を眺めていて、ふと気付いたことがあった。
46.大井宿
47.大久手宿
48.細久手宿
49.御嵩宿
46の大井宿は、現・岐阜県恵那市であることが分かった。
49の御嵩宿は、今も変わらずに現・岐阜県御嵩町という地名が残っている。
では、その間にある"47.大久手宿"と"48.細久手宿"ってどこのことだ?
地図を見ていたらピンときた。
あっ! "湫"は"クテ"って読むんだ。
学生時代に友人たちとスキーに行ってた頃、高速に乗るお金を節約するために、下道の国道19号を走っていた。そして、瑞浪市と恵那市の中間あたりで「大湫」の入った標識を目にしていたのだ。あの字って何て読むの? なんて会話をした記憶がある。
ひょっとしたら、大湫 = 大久手?
とはいえ、「大湫」がどこにあるかは知らないままだった・・・
分からないことはそのままにしない!
日曜日の早朝、バイクを走らせて「大湫」を目指した。
例のごとく、ナビは無しで走った。
ナビに頼ってしまうと、途中にある大事なものを見落としたり、直感が鈍ってしまうんだよな~と、変な言い訳を自分に言い聞かせながら走った。
それでよく道を間違えるのだが、それも旅である・・・と、また自分に言い聞かせるのだ。
■中山道 大湫宿
今回は道に迷うことなく、朝8時に「大湫」に到着した。
国道19号からは結構な距離を走ってきた。
かなりの山奥だ。
こんな人里離れた所にあるんだ~というのが、第一印象である。
宿場まちに入ると、ガラッと雰囲気が変わるのを感じた。
えっ? ここは何時代だ?
不思議な感覚だった・・・
宿場まちに入っていきなり"高札場"が目に飛び込んできました。
前回、隣の宿場まち「大井宿」で"高札場"のことを学んできたので、その存在に気付きました。
■高札場跡
高札場とは江戸時代に三定など幕府からの村民心得や板書札を掲示した場所のことで、宿の場合は旅人の道中心得や人馬賃銭など道中奉行所からの高札も掲げられていた。
(平成9年度復元)
■観音堂
道中安全、病気全快の観音様として知られ、宿内、近郷はもちろん旅人からも厚い信仰を受けて賑わってきた観音堂。
もとは神明神社の境内にあり、享保六年(1721年)に今の場所に移された。2度に渡る宿の大火に類焼し、現在のお堂は、弘化四年(1847年)に再建された。境内に並んでいる数多い石造物とともに盛大だった宿当時を偲ぶことができる。
観音堂内の60枚の絵天井は、旧恵那郡付知町の画人三尾静によるもので市指定文化財である。複製画が丸森(現・中山道大湫宿観光案内所)にある。
合掌を済ませた後、観音堂の右横にあった吊り鐘をゴォーンと鳴らしたら、朝の静かな大湫まちに鐘の音が響き渡りました。
心の中で、目に見える現代のもの(建屋や電柱、電線などの人工物)を消していきます。
きっと山並みや空は、江戸時代と変わらないはずです。
この観音堂の御本尊さまは、中山道時代から人々の下半身、特に足腰の病にご利益のある尊い観音尊像として有名だったそうです。
当時の旅人たちもここに立ち寄って、旅の安全を願ったのかな。
さらに先へ進んでいくと、明らかにこの狭い街道が中山道だと分かります。
街道沿いには江戸時代の建物が残っています。
■弓型の道路
宿場まちの道が弓型になっているところは、敵が群れで侵入してきた時、まとまって通りにくく、スピードを落とさないといけない。そのため、意図的に見通しが悪くなるよう設計されている。
■枡型の道路
宿場まちの東部は道が直角に折れ曲がっている。城や宿場まちに見られる防備の設備だといわれる。
この道は、武士が馬に乗って宿内に侵入してくる時、急に止まったり、急に曲がったりすることができないため、あえて道を枡型にすることで攻撃を受けにくくしている。
■神明神社
大湫宿の鎮守の宮として慶長十三年(1608年)に創建。神社の祭神は天照大神・仁徳天皇。厄除けや豊作祈願の神社として親しまれている。
大湫の大杉は、江戸時代の御家人・大田南畝の旅日記『壬戌紀行』にも記された中山道大湫宿のシンボルであったが、令和2年7月11日の豪雨により根元から折れてしまった。町民の熱意によってその一部が現地に市指定文化財として保存された。
◆神明大杉:樹齢670年、幹回11m、直径3.2m、樹高40m
■門田屋の虫籠窓(ムシコマド)
虫籠窓は、主に漆喰の塗装造りと呼ばれる町家建築の2階部分に縦に格子状の開口部を設けた固定窓のこと。
窓の形式のひとつで、目の細かい縦の格子が等間隔に並ぶ虫籠格子をつけた窓。
■問屋場跡
問屋場とは宿役所のことで、その跡は中町の白山神社入口の角にあり、問屋役・年寄役・書記役・人馬指などの宿役人のほか下役・定使などが出勤、公用荷物の継立・差配から大名行列時の宿割など、宿の雑務全般に当たった所。
◆白山神社:慶長十七年(1612年)建立。神明神社とともに一村二社の特例が認められた大湫宿の鎮守社。
■脇本陣 保々家(国登録有形文化財)
当初は本陣であったが、享保十年(1727年)に脇本陣となった。
部屋数は十九部屋、畳数は百五十三畳、別棟六つと四つの建物からなっていた。
いまは上段の間などは取り壊されてしまったものの、半分程度の規模と門や庭などが残っている。山村方の庄屋・問屋を兼任。
中仙道の整備によって慶長九年(1604年)に大湫宿が正式に開設され、保々氏が本陣・脇本陣・問屋場を任せられる。御公用継立てにより公爵・幕使・大名などの宿泊所となる。
これで、ようやく"本陣"と"脇本陣"の役割も知ることができました~。
現在は個人さま所有のため、中に入ることはできませんが、将来的に観覧できるように整備されるそうです。
■本陣跡
本陣は旧大湫小学校の校庭にあり、間口は二十二間(約40m)、奥ゆきは十五間(約27m)
部屋数は二十三部屋、畳数は二百十二畳、別棟添屋という広大な建物で公卿や大名、高級武士たちのための宿舎であった。
◆大湫小学校:昭和33年開校、平成17年閉校、平成30年3月取り壊し
■皇女和ノ宮歌碑
皇女和宮さまが十四代将軍徳川家茂へ御降家のため、文久元年(1861年)十月二十八日、その道中の一夜を過ごされたのも大湫宿の本陣である。
◆和宮降嫁:1861年10月26日~10月29日の4日間(10月28日に宿泊)御供約5000人、人足等約28000人、馬約800頭の大行列。
本陣跡には皇女和宮さまの歌碑がある。
遠ざかる 都を知れば 旅衣
一夜の宿も 立ちうかりけり
思いきや 雲井の袂 ぬきかえて
うき旅衣 袖しほるとは
■丸森 森川家(国登録有形文化財)
現・中山道大湫宿観光案内所
江戸末期(町屋形式)の外観が残る建物で、旅籠と商家(塩の専売)の雰囲気を残す。
明治十四年頃の改築で板葺きから瓦葺きに修復された。
1階には大戸,無双窓、2階には切子格子,袖うだつ、屋根には越屋根が見られる。また、隣の建物との間には背割り排水路がある。
◆大戸:建物の正面にある荷物の搬出入用の出入口。
◆無双窓:窓の形式のひとつで、小幅の堅板をその堅板の幅だけ間隔をあけながら打ち付けた同形の連子を前後に二つ並べ、外側の連子を固定し、内側の連子を引戸として付け、この連子を左右に動かすことで、開けたり閉めたりするようにした窓。無双とは表裏が同じもののことを指す。
◆切子格子:京都の町家の格子の種類の一つで、親子格子あるいは子持格子などと呼ばれる格子。
◆袖うだつ:軒下を伝わってくる火を防ぐ効果を持つ。
◆越屋根(煙抜け):天井を張らずに小屋組を見せる。
◆背割り排水路:隣との境に石垣の溝を設け生活排水を流す。街道に沿ってつくられた細長い町並みは、家々の地割を6間半(約11.8m)平均に割られ、石積みの側溝が今でも家々の境界に見られる。
■江戸時代の時間を過ごせる場所へ
宿場まちを散策したあと、誘われるようにふらりと"丸森"に立ち寄った。
入口には箱階段(箪笥階段)があり、座敷の天井はとても低い。商家らしく、懐かしい算盤などが置いてあった。ふと壁を見上げると、袖搦(そでがらみ)があった。
◆袖搦(そでがらみ):江戸時代に使用された長柄の捕り物道具。先端にかえしのついた釣り針のような突起を持つ先端部分と刺のついた鞘からなり、木製の柄に取付けて使用する。2.1m(7尺)の長さがあり、相手の振るう打刀、長脇差の有効範囲外から攻撃が可能である。
塩の販売をしていた商家の部屋の天井が低いのは、刀が振れないようにするとのこと。
火付け盗賊などの罪人が居たのかな~と思うと、ちょっと怖い気もする。
奥のお座敷は旅籠としての機能があり、その先には立派な日本庭園が見えました。
縁側から眺める庭園は当時のままだそうです。
隣の五平餅屋さんからは、香ばしい匂いがふわりと風に乗ってやってきます。
向かいの建物からは、太鼓や笛のピーヒャラドンドンといった賑やかな音色が聴こえてきます。
穏やかな秋晴の日曜日。
この一瞬だけを切り取ると、まるで江戸時代にタイムスリップしたかのような錯覚を起こしました。
この時間旅行の感覚は大切にしたいなぁ~と思い、デジタルツール(スマホ)を触るのは止めました。
したがって、建物の中の写真はありません・・・
記憶の中にしっかりと焼き付けておきました。
■大湫と大久手の使い分けは?
・大湫=村としての地名で「大湫村」
・大久手=幕府関係の文書等で「大久手宿」
「大湫宿」は「大久手宿」とも書かれ、江戸から数えて47番目の宿となります。
慶長九年(1604年)に日吉高原から十三峠の標高510mの高所に新道として中仙道が整備され、「大久手宿」が開宿しました。
湫とは沼地や湿地帯を表す言葉で、峠に挟まれた低い場所で水が溜まりやすいところを指してこの名になったようです。
東の「大井宿」へは三里半、西の「細久手宿」には一里半の位置にあり、標高は約510mと美濃国で最も高所の宿場となり、付近は急坂が続く難所とされてきました。
東の十三峠、西の琵琶峠に挟まれた宿場まちは、国道や鉄道などの近代交通が発達しておらず、交通が不便な反面、静かで落ち着いた町並みが今も往時の姿を偲ばせます。
■山間に残された宿場まちの原風景
国道19号やJR中央本線は土岐川沿いに開かれたため、ここ大湫は取り残されたような形となり、往時のままの姿をとどめています。
脇本陣の保々家(江戸末)のほか、三浦家(江戸末)、森川家(丸森:江戸末)、森川家(新森:明治)の四棟が国登録有形文化財に登録されており、往時の宿の面影を伝えています。
だからこそ、まるで江戸時代にタイムスリップしたかのような錯覚が起きたのでしょう。
景観を保存した観光地として有名な「馬籠宿」には何度か訪れたことはありますが、ここ「大湫宿」はそれ以上に魅力があり素晴らしいところだと思います。
今回は、おとなの旅バイクとして文明の利器でやって来ましたが、次回は十三峠と琵琶峠を組み合わせて、贅沢に徒歩で堪能したいと思います。
■これより先、十三峠へ
「大湫宿」は交通が不便であること、東西が峠で挟まれていることもあり、街道歩きの人にとっては最後に訪れる場所ともいわれています。
最近ではオーストラリアからの旅行者も多いようです。個人で来たり、日本人ガイドさんと共に来たりと。
「大湫宿」には宿泊施設がありませんが、現在、一軒だけ民泊(素泊まり)の準備をしているそうです。
十三峠を越して「大井宿」に行くにも時間が掛かるとのことで、地元の了解を得て、テント宿で泊まったオーストラリア人も居たとのことです。
自分もいつかは中山道(木曽海道)をじっくりと歩いて旅を愉しみたいものです。(いつかではなく必ず・・・)
この宿場まちは、何とQRコードが付けらており、スマホをかざすと建物などの説明を読むことができます。
街道の雰囲気は江戸時代なのに、最先端の技術がミックスされていて、そのギャップが何だかとても面白いです。
このQRコードを制作したのが「岐阜県立瑞浪高等学校」です。
高校生諸君、素晴らしい取り組みですね。地元愛を感じます!
■美濃中山道の宿場まち(中山道ぎふ17宿)
江戸・日本橋から京・三条大橋まで六十九宿[百三十五里二十四町八間(約534km)]
この中山道の約4分の1相当にあたる128kmが美濃国、つまり現・岐阜県です。
① 43.馬籠宿
② 44.落合宿
③ 45.中津川宿
④ 46.大井宿
⑤ 47.大湫宿(大久手宿)
⑥ 48.細久手宿
⑦ 49.御嵩宿
⑧ 50.伏見宿
⑨ 51.太田宿
⑩ 52.鵜沼宿
⑪ 53.加納宿
⑫ 54.河渡宿
⑬ 55.美江寺宿
⑭ 56.赤坂宿
⑮ 57.垂井宿
⑯ 58.関ヶ原宿
⑰ 59.今須宿
旅のはじまりはモーターサイクル。
自由への扉をひらこう。
