今回は、秋季特別企画展の③後期「中津川~大津」の続編です。
現在の「岐阜県中津川市~滋賀県大津市」のエリアになります。
摺り違いの愉しみも、いよいよ最終局面です。
◆秋季特別企画展
出版190年記念 渓斎栄泉・歌川広重
木曽海道六拾九次之内
摺り違いの愉しみ
①前期:2025年8月28日~9月28日 日本橋~追分
②中期:2025年10月2日~11月3日 小田井~落合
③後期:2025年11月7日~12月7日 中津川~大津
3期全点入れ替え
18年ぶり全点公開&徹底比較
■中山道広重美術館
円熟期の広重が中山道を描いた「木曽海道六拾九次之内」など、浮世絵版画を中心に収蔵しており、ほぼ毎月入れ替え展示。模擬版木を使った重ね摺り体験も人気。
午前9時30分~午後5時(入館は4時30分まで)
広重の描く風景画が高いリアリティーを持つ要因の一つに、当時の風俗を描いたことが挙げられます。
「木曽海道六拾九次之内」①前期,②中期,③後期とすべての作品を通してみると、ひとつひとつの風景画が素晴しいのは勿論のこと、周辺にある名所や旧跡、食べ物やお土産など、絵図のなかには当時の旅にとっての重要な情報が散りばめられています。
江戸時代中頃から、多くの庶民が旅に出かけるようになりました。
その理由としては、街道の整備が進んで移動が楽になったことが挙げられます。
また、全国の名所を絵図付きで紹介した名所図会に旅心をくすぐられた人たちも居ました。
名所図会は、現代で言うところの図版を多用したガイドブックのような存在だったのでしょうか。
江戸時代の旅人たちが楽しんだところと同じ場所に立ち、同じ視点を持って作品を鑑賞してみると、さらに時間旅行を愉しむことができます。
今回は、宿泊や食事について注目してみたいと思います。
■歌川 広重作 木曽海道六拾九次之内 御嶽
■木曽海道 御嶽(みたけ)宿
美濃国 現・岐阜県可児郡御嵩町
人口:600 総家:66
本陣:1 脇本陣:1 旅籠屋:28
「御嶽」は美濃国、現・岐阜県可児郡御嵩町のことであり、その「御嶽」の東方にある謡坂付近とされる夕景です。
小屋の障子には"きちん宿"と墨書きされています。
柱には"御嶽山・御神燈"の行灯が掛けられており、御嶽参りの一行が利用している様子です。
隣国の尾張国は御嶽講の盛んなところで、多くの講中がこの宿に泊まって登拝に向かったようです。
「御嶽」は、当時の宿泊の様子を知るための貴重な1枚であり、この臨場感豊かな表現が、なんともいえない旅愁を醸し出しています。
江戸時代の旅に出る目的は"信仰"を基本とした参詣の旅が多く、参詣のためという名目であれば、堂々と旅に出ることができたのです。
"参詣の旅"以外では、寺社詣の道中に温泉宿に立ち寄って、旅の疲れを癒す旅人も多くいました。
お湯は「御汲湯」として江戸城に献上されるなど、将軍さまから大名、庶民までが温泉を楽しみました。湯治の大義名分があれば、通行手形が発行されたこともあり、人々はこぞって温泉旅行へと出かけました。
その流れは脈々と継承しているのでしょうか。
現代でも参詣や温泉などの同じような旅行をしていますね。
例えば、江戸時代の温泉番付「諸国温泉功能鑑」東の小結には"信州諏訪の湯"があります。
②中期にあった「下諏訪」の作品を振り返ると、旅籠屋の内部の様子が描かれています。
「下諏訪」は信濃国、現・長野県諏訪郡下諏訪町のことです。
さて、「御嶽」にある"きちん宿"とは、どんな宿を指すのでしょうか?
江戸時代の宿にはランクがあり、大きく分けて、①本陣,②脇本陣,③旅籠,④木賃宿の4種類がありました。
① 本陣:大名や公家、幕府役人など身分の高い人の宿泊施設で、門や玄関,書院の設置が許された。大名は寝具や燃料,風呂桶まで持参したので、基本は建物貸しだった。
本陣とは文字通り、合戦の際に大将が陣取るところ、つまり大名の義務である参勤交代には、軍旅という意味がある。
② 脇本陣:本陣の予備施設。人数が多く本陣に収容できない場合や複数の大名の滞在が重なった際に身分の低い方が宿泊した。大名や勅使の利用がない場合は、一般客が泊まることもあった。
③-1 旅籠:庶民の宿泊施設。1泊2食付きで部屋には寝具があり、共同浴場を利用できた。部屋の広さや旅籠の規模などで値段が違い、客引き専門の*留女がいた。
【*留女】客引きをする旅籠屋の女のこと。
③-2 平旅籠:*飯盛り女を置かない旅籠。表通りに表札を掲げ、広い板の間が見通せる二階建てだった。
③-3 飯盛旅籠:*飯盛り女を抱えていた旅籠。表札がなく、土間も狭い二階建てだった。格子越しに*飯盛り女を並べる見世を置くところもあった。幕府は旅籠に置く*飯盛り女を2人までとしたが守られなかった。
【*飯盛り女】本来は旅籠で奉公する女のことで、旅籠が食事や酒、寝具などを提供し宿泊費をとるようになり、客の求めに応じて給仕したため飯盛り女といわれるようになった。さらに表向きは飯盛り女でも給仕だけでなく遊女行為をするものもあった。
④ 木賃(きちん)宿:食事のない安宿で、客は鍋釜を借りて持参した食材を調理した。多くは相部屋で、夕方になると行商人が立ち寄ることもあった。宿賃と調理用の湯代や薪代(木賃)を払った。
つまり、"きちん宿"とは"木賃宿"のことでした!
これは現在で言うところの、"素泊まりゲストハウス"のような宿でしょうか?
宿賃が安かったので、行商人,旅芸人,巡礼者などが泊まっていました。
ここには特定の部屋はなく、寝具も予め頼んでおかない限り出ませんでした。
そのため客が囲炉裏のまわりの蓆敷きの上で雑魚寝するようなところも多かったようです。
建屋内では旅人たちが囲炉裏を囲みながら雑談し、前に流れている小川では老女が米を研いでいます。
宿の主人が囲炉裏で薪をくべて、湯釜で湯を沸かしています。旅人たちは持参した乾飯にこの湯を加えれば食べることができました。
ここでもう一つ、②中期にあった作品を振り返ると、「贄川」には二階建ての旅籠が描かれており、宿泊客を迎える旅籠屋の様子が分かります。
「贄川」は信濃国、現・長野県塩尻市のことです。
さて、当時の宿泊費は幾らくらい?だったのでしょうか。
銭1文を約20円と仮定して計算してみます。
■宿泊の費用について
・本陣
参勤交代は軍旅のため、大名は本陣に対して宿泊料を払う義務はなかった。
しかし、一般には大名が本陣に宿泊すると、先ず本陣の主人が大名にお目見えをし、土産物を献上すると、大名よりは祝儀の名目で金品などの下賜があった。
これが宿泊料の代わりとなり、金3両~5両(30万~50万円)といわれていた。
・旅籠代(1泊2食)
上:172~300文(3,440~6,000円)
中:148~164文(2,960~3,280円)
下:108~140文(2,160~2,800円)
・木賃代
上:72~100文(1,440~2,000円)
中:48~70文(960~1,400円)
下:32~45文(640~900円)
ここ最近、物価高やインバウンド効果の影響もあり、宿泊代がかなり高騰してきていますが・・・
旅籠代(上)の6,000円は、エリアにも寄りますが、安い民宿やビジネスホテル(朝食付き)くらいの価格でしょうか。
■歌川 広重作 木曽海道六拾九次之内 関ヶ原
■木曽海道 関ヶ原宿
美濃国 現・岐阜県不破郡関ヶ原町
人口:1,389 総家:269
本陣:1 脇本陣:1 旅籠屋:33
「関ヶ原」は美濃国、現・岐阜県不破郡関ヶ原町のことであり、長い旅路の途中に、藁屋根の掛茶屋で休憩をとる旅人たちの様子が描かれています。
掛茶屋は、通行人や旅人にお茶を提供していました。
軒先には「名ぶつ さとうもち」の提灯を吊り下げ、「三五 そばきり うんどん」と描かれた看板が掲げられています。
「三五」とは、そばきり(そば)やうんどん(うどん)の値段が1杯15文(3×5)であることを示す品書きと、本シリーズ(木曽海道六拾九次之内)で広重が担当した版画を東から数えると本図が35番目であることを掛けているものと考えられます。
その他には、傘,扇,草鞋などが売られています。
店の前の縁台には二人の旅人が腰を下ろし、 満面の笑みを浮かべて今まさに名物の砂糖餅に箸を付けようとしているところです。
お盆に2つのお茶を乗せてきた老婆は、もう一人の旅人に注文を聞いています。世間話しでもしているのでしょうか。
馬を引いた馬子が帰り馬の客を探しているのか?茶屋の前をウロウロとしながら店を伺っている様子が伝わってきます。
江戸時代には「北国海道」と「伊勢街道」が分岐する宿場町として、人馬や物資の往来が多く、賑わいをみせていました。
茶屋と言えば、現代の喫茶店やカフェになります。
江戸時代にはいろいろな茶屋がありました。
・茶葉屋:製造された茶葉を売るところ
・芝居茶屋:芝居の観客の世話をするところ
・料理茶屋:高級料理や酒を提供するところ
・掛茶屋:通行人や旅人に茶を提供するところ
・水茶屋:宿場や門前町にあった魅力的な看板娘が接客するところ
旅籠屋では昼食を出さなかったので、旅人たちは茶屋で昼食をとりました。
当時のお茶代は幾らくらい?だったのでしょうか。
こちらも銭1文を約20円と仮定して計算してみます。
■食費について
・そば,うどん:15文(約300円)
・大福:4文(約80円)
・串団子:4文(約80円)
・冷や水:4文(約80円)
・水茶屋のお茶:6文(約120円)
・昼食(茶店):70~80文(約1400~1600円)
・酒代(1合):15~20文(約300~600円)
・米(四合五勺):100文(4.5合=約675g 約2000円)
◆尺貫法の容積の単位
・升(ショウ):約1.804リットル=一升瓶
・合(ゴウ):升の十分の一の容積(約180㎖)=徳利(とっくり)
・勺(シャク):合の十分の一の容積(約18㎖)=お猪口(おちょこ)
升の容積は、江戸幕府により統一され、縦横が四寸九分(約14.85cm)深さが二寸七分(約8.18cm)の枡の容積として定められました。
■日用品について
・草履:14文~16文(約280~320円)(3日に1足)
宿泊費と同様に現代と近い価格になるように、レートを銭1文を約20円で計算しました。
蕎麦やうどんが約300円というのは、昭和の価格でしょうか。
現在の令和では、原材料価格,物流コスト,人件費の高騰の影響もあり、ワンコイン(500円)では収まらなくなってきました。
平成のインフレ時代が懐かしく思えてきます。
■江戸時代の通貨について
江戸時代の商取引では、金貨,銀貨,銭貨の3貨幣が使われていました。
◆金貨の単位:両(りょう),分(ぶ),朱(しゅ)の3種類
四進法により、金1両は4分,金1分は4朱
◆銀貨の単位:貫(かん),匁(もんめ),分(ふん),厘(りん),毛(もう)の5種類
銀1貫は1000匁
◆銭貨の単位:貫(かん),文(もん)の2種類
銭1貫=1,000文
金1両=銭4,000~10,000分
3種類の通貨に単位もバラバラでは、複雑すぎて使い勝手がよくないため、幕府は交換レートを定めました。
【金1両=銀60匁=銭4000文】
その結果、商取引などの経済活動が円滑化し、貨幣の流通も活発になっていきました。
しかし、幕府による貨幣改鋳などの影響で、交換レートはたびたび変動しました。
江戸時代の米貨は、概ね米1石(こく)=金1両(銀60匁)
米貨から算出した1両の価値は、江戸時代の時期によっても異なりますが、概ね10万円と考えられています。
旅のはじまりはモーターサイクル。
自由への扉をひらこう。
