2025年に開催された「中山道広重美術館」『秋季特別企画展』のこと。人生で初めて歌川広重の浮世絵に出逢いました。
美術には無縁だった自分が「中山道六拾九次之内」を前期・中期・後期と3期に渡って美術館に通いました。見始めの頃は、企画名にあった"摺り違いの愉しみ"という言葉の意味すら理解していませんでした。
もともと旅が好きなので、街道や地名,宿場まちには馴染みを持っていました。
最初のうちは素朴な風景画として作品を眺めながら、とても美しいなぁ~と鑑賞していました。
街道シリーズとして、通しで作品を鑑賞していくと、四季における様々な気象条件や江戸時代の風土の美しさ、豊かな自然を表現している様を感じ取りました。
雨・雪・風・霧の自然現象を見事に表現した格調高いぼかしの技術を取り入れた作品は、絵師だけではなく、彫師、摺師とのぴったりと息の合った職人達の成せる技だと分かりました。
そして、この作品を世に広めるために版元(出版社)が企画・立案・販売していたことも分かりました。
およそ190年前の江戸時代に、このような高度な手工業や流通システムが確立されていたことにも驚かされました。
次第に、広重の作品を通して、江戸時代の文化にも心が惹かれていきました。
18世紀の江戸の街は、世界でも屈指の巨大都市であり、パリやロンドンを上回る100万人の過密都市が形成されていました。
徳川幕府の統治システムが確立しており、世界史上でも稀な260年間という泰平の世が続くなか、多くの庶民が働き、学び、生活していました。当時の日本国の識字率の高さは、世界一とも云われています。
平和を享受できるなかで充実した教育システムが日本人のリテラシーを大きく向上させました。
*リテラシー:情報を正しく理解して、自分の生活や仕事にうまく活かせる能力のこと
改めて、作品を一つひとつ見直していくと、四季や天候だけではなく、時刻という刻一刻と変化する自然の要素をも取り入れて、叙情性を高めていることにも気付かされました。
更には、登場人物に込められたメッセージ性も伝わってきました。
静止画でありながら、動画のようにも感じ取ってしまう不思議な錯覚にさえ陥ります。
魅惑的な浮世絵を描き続けた広重の作品に、すっかりと心を奪われてしまったのでした。
さて、2026年最初の企画展は「東海道五捨三次」です。
広重は生涯に渡り、数々の"東海道シリーズ"を手掛けてきました。
■保永堂版東海道「東海道五捨三次之内」 天保5年(1834年)広重38歳
■行書版東海道「東海道五捨三次之内」 天保13年(1842年)広重46歳
■隷書版東海道「東海道五捨三次」(横大判) 嘉永2年(1849年)広重53歳
■東海道貼交図会 嘉永5年(1852年)広重56歳
■狂歌入東海道「東海道五捨三次」(中判)
■竪絵東海道「五十三次名所図会」(竪構図)
隷書東海道とは、作品名が隷書体(れいしょたい)で書かれていることから、通称「隷書版東海道」と呼ばれています。
江戸と京を結び、多くの人々が往来した風光明媚な街道風景を愉しみたいと思います。
<企画展> 浮世絵 東海道 旅の空
-隷書東海道を中心にー
・会期:2026年1月22日(木)~ 2026年3月29日(日)
前期:1月22日(木)~ 2月23日(月・祝)
後期:2月27日(金)~ 3月29日(日)
・観覧料金:一般520円(JAF会員420円)
※18歳以下無料,毎週水曜日と金曜日は観覧無料スポンサー制度あり
・休館日:月曜日
・開館時間:午前9時30分~午後5時
江戸時代、日本橋~三条大橋間に53の宿場を有した日本の大動脈・東海道。
山間の道を取る中山道とは異なり、道中では茫洋たる太平洋や古来人々に親しまれてきた霊峰・富士山など、変化に富む佳景を楽しむことができました。また、箱根や薩埵などの峠の難所、徒歩渡しや舟渡しを要する河川の難所、七里の渡しといった海路もあり、広重はさまざまな顔を見せる東海道をテーマに、数多くの作品を生み出しました。
本展でご紹介する「東海道」は、作品名が隷書体で書かれていることから「隷書東海道」と通称されます。天保4~6年(1833~35)頃に出版された「東海道五拾三次之内」(通称、保永堂版東海道」の大ヒットから10年余り。弘化4~嘉永5年(1847~52)に手掛けられた本揃物は、画業の円熟期に入った広重による「保永堂版東海道」の後継作品ともいえるシリーズです。横大判の画面に景色を広角に捉え、鮮やかな色彩と摺りの技術の高さにより、風光明媚な東海道の旅路を生き生きと描き出しています。
なお、本展では「隷書東海道」の他、広重の代表作である「保永堂版東海道」や、画中に狂歌の書き込まれた中判の「東海道五拾三次」(通称、狂歌入東海道)、竪構図の「五十三次名所図会」(通称、竪絵東海道)などからも出品。異なるシリーズの作品を見比べながら、当時の人々が目にしたであろう東海道の旅路をお楽しみください。
■中山道広重美術館
円熟期の広重が中山道を描いた「木曽海道六拾九次之内」など、浮世絵版画を中心に収蔵しており、ほぼ毎月入れ替え展示。模擬版木を使った重ね摺り体験も人気。
午前9時30分~午後5時(入館は4時30分まで)
前期の展示では、江戸の「日本橋」からスタートし、東海道五十三次の中間にあたる静岡県の「掛川」までの作品が並びます。
「隷書東海道」だけではなく、江戸時代のベストセラーとなった「保永堂版東海道」など、他の東海道揃物の作品も宿場ごとに並べられているため、時代ごとに描かれた違いを見比べる愉しみ方もあります。
閑散とした館内(貸し切り状態)なので、「掛川」まで鑑賞したあとは、もう一度、起点の「日本橋」に戻って、江戸時代の旅路をなんども何度も往来してきました。
その中でもひと際、深い感銘を受けた作品が「蒲原(夜之雪)」でした。
■歌川 広重作 東海道五拾三次之内 蒲原(夜之雪)
■蒲原宿(かんばら)
東海道第十五宿
現・静岡県清水区蒲原
総家数:509軒(本陣1,脇本陣3,旅籠屋42)
人口:2480人
蒲原の図「夜の雪」は「保永堂版東海道」シリーズ中の傑作と云われています。
雪がしんしんと降り積もる夜の宿場まちの情景です。
沿道の家々の屋根の雪は、ふっくらとしていて新雪の柔らかさを感じさせ、宿場まちを静寂のなかに優しく包み込んでいるかのような景色です。
雪明かりを頼りに、番傘を半開きして杖を突きながら雪下駄を履いて坂を下る村人。
菅笠と合羽に雪をまとった旅人は寒そうに身をかがめて坂を上っていきます。
深雪についた足跡からは行き交った様子が描かれており、雪を踏みしめて歩いてゆくその足音さえも消されそうなくらいとても静かな雪夜です。
この版画もまた、静止画であるにもかかわらず、静寂さの中からしんしんと降る雪の音や、深雪を踏みしめて歩いていく音がほんの僅かに聞こえるような気がします。
記憶の中にある雪国の情景や、子供の頃に雪を踏みしめてザッ・キュッと鳴らした記憶が呼び起こされるのでしょうか?
背景の山は蒲原の御殿山でしょうか?
実際には蒲原の地でこのような構図は見られないようです。
宿場まちに対して街道も図のように右手の坂にはなっていないし、左手の斜面がどこに当たるかもはっきりとしません。
ここ静岡県の蒲原は温暖な気候であるため、広重の空想の中で描かれたと云われています。
何故、温暖な地で雪景色を描いたのかは、深い謎に包まれています。
リアリティーをとことん追求してきた広重が、果たして空想で描くのかな?
温暖な地でも何十年に1度かは積雪もあったらしく、あながち創作とも言えないのではないか?とも思ってしまいます。
保永堂版東海道シリーズで描かれた雪の情景は、静岡県の「蒲原 夜之雪」と三重県の「亀山 雪晴」の2枚のみです。
本当に天保4~6年には積雪があった年が存在して、敢えて奇抜さを狙って、温暖な地とは真逆の雪国の景色を作品に取り入れたのでは?
"夜の雪"と対になる"朝の雪"を組み合わせたのでは?
そんな空想を搔き立てられる、幻想的な「夜の雪」に魅了されていきます。
この「夜の雪」に惹かれるもう一つの理由は、極端に色数が少ないことが挙げられます。
雪の白色は和紙の地色で、ほとんどは墨の濃淡のみで表現されています。
水墨画のように白色と黒色の墨絵調にして静寂な夜を強調し、僅かな挿し色として傘や蓑には茶色、着物には青色、合羽には黄色という鮮やかな色を付けて浮かび上がらせています。
多彩な色数を用いた華やかな画が、織物の錦のように美しい!という理由から、浮世絵版画は『錦絵』と呼ばれていましたが、この「夜の雪」は、とことん色数を抑制した作品に仕上がっており、華やかな『錦絵』の対極に存在する美しい画だと思います。
色彩感覚に対して卓越した感性を持っていた広重であったからこそ成せる技だと言えます。
色数を抑えていく、もう一つの狙いには、現実的なコスト問題も挙げられます。
江戸市中の絵双紙屋で販売される商品であるからには、出版社である版元は常にコストを意識しておかねばなりません。単純に摺り数が増えればそれだけ、摺板と色、職人の手間賃を必要とするため、コストが跳ね上がります。
もしも、少ない色数で画面効果を上げられる絵師が存在するならば、版元にとっては重宝します。
とくに役者絵や美人画に比べて制作コストが抑えられていた名所絵は、その出来栄えは絵師の才能にかかっていました。
「保永堂版東海道」が大きな評判を呼ぶことで、広重は人気絵師となりました。
その後も相次いで名所絵シリーズを世に送り出し、名所絵師の第一人者としての地位を築き上げました。
およそ190年の時を経ても、なお不変の魅力を放ち続ける作品には思わず圧倒されてしまいます。
旅のはじまりはモーターサイクル。
自由への扉をひらこう。
