旅をしたくなる「東海道」と「中山道」とは?


旅を始めるキッカケとなったのは「岐阜関ケ原古戦場記念館」で間違えて購入してしまった1冊の本だった・・・

 

 

 

手に取ったのは『中山道 道中案内 関ケ原から三条大橋』の本だった。

 

表紙をじっくりと見ることもなく、中のページをペラペラと捲ったら、地図上に宿場町やルート図が描かれており、細かな注釈も入っていた。

 

これは以前、本屋さんで立ち読みして見つけた「東海道」のガイドブックだ!と早とちりし、見かけたときに買っておこう!と思い、さっとレジに並んだ。

 

 

 自宅に帰ってワクワクしながら本を開くと、地図は関ケ原からスタートしていた。

 

あれ?

なんか中途半端だな~と思い、よくよく表紙を見てみると「中山道」と書いてあるではないか・・・

 

ん、違えた?!

 

まぁ、買ってしまったものはしょうがない・・・

 

と気を取り直し、読み始めることにした。

 


■岐阜関ケ原古戦場記念館


 

本を読んでいて、ふと思い出したことがあった。

 

「歌川広重」の挿絵だ。

 

そうだった、この絵のことが昔から気になっていたんだ・・・

 

ときは遥か昔の小学生の時代まで遡る。

 

小学校の図書館で見つけた十返舎一九『東海道中膝栗毛』の本が大好きだった。   

弥次さんと喜多さんが珍道中の旅をおくる話しだ。

話しがあまりに面白くて繰り返し読んでいた。

 

あれから40年近くの歳月が流れ、ようやく2024年の5月に静岡県の「薩埵峠(さったとうげ)」に訪れたのだった。

 

ある日、子供と一緒に「徳川美術館」の記念展"初音の調度"に出かける機会があった。

 

徳川美術館開館90周年記念 特別展

国宝 初音の調度

2025年4月12日~6月8日

 

寛永十六年(1639年)徳川家3代将軍家光の長女・千代姫が、尾張徳川家2代光友に嫁ぐ際の婚礼調度として誂えられた、江戸時代を代表する蒔絵の名品。黄金に輝く精緻で豪華な大名婚礼調度。

 

 

たまたま館内にある売店で『ちいさな美術館 歌川広重 東海道五拾三次』という郵便はがきサイズの本を見つけた。

 

うつろいゆく自然に旅人たちの姿

 

情感豊かに描き上げた江戸の旅 

 

東海道を旅する人々や風景を情感たっぷりに描き出した幕末の人気絵師、歌川広重の出世作にして代表作である。

 

 

思わず買ってしまった!

 

とても小さな絵はがきを見ながら、そうそう『東海道中膝栗毛』の弥次さんと喜多さんはこの「東海道」を旅してたんだよなぁ~と空想にふけっていた。

 


■徳川美術館


 

そして、再び「中山道」のガイドブックの中で歌川広重の挿絵を見つけたのだった。

 

そういえば「歌川広重」に関する美術館が、たしか岐阜県の恵那の方に無かったっけ?

 

以前、JR中央本線に乗って通勤していた時代に車内でチラッと見かけた広告媒体のことを急に思い出した。

 

Google Mapで検索するとすぐに「中山道広重美術館」が出てきた!

 

そうだった・・・

 

いつかは行ってみたいんだよなぁ~と思いながら、行動にも移していなかったのだ。

 

あれからいったい何年経ってんだか・・・

 

 

最近読んだ本の中で見つけた言葉があった。

 

時間がない、休みがない、お金がない、体力がない、

 

本当にないのは"覚悟"なんだって・・・

 

その"覚悟"という2文字が強く印象に残っていた。

 

 

改めて、「中山道広重美術館」のホームページを見ることにした。

 

すると・・・

 

とても魅力的な情報が目に飛び込んできた!

 

 

◆秋季特別企画展

 

 出版190年記念 渓斎栄泉・歌川広重

 木曽海道六拾九次之内

 摺り違いの愉しみ

 

 ①前期:2025年8月28日~9月28日 日本橋~追分

 ②中期:2025年10月2日~11月3日 小田井~落合

 ③後期:2025年11月7日~12月7日 中津川~大津

 

 3期全点入れ替え

 18年ぶり全点公開&徹底比較

 

 

これは絶対に行かねばならない!

 

 

直感でそう思った・・・

 


■中山道広重美術館

 

円熟期の広重が中山道を描いた「木曽海道六拾九次之内」など、浮世絵版画を中心に収蔵しており、ほぼ毎月入れ替え展示。模擬版木を使った重ね摺り体験も人気。

 

午前9時30分~午後5時(入館は4時30分まで)


 

①前期の「日本橋~追分」が見られるチャンスは今日しかないぞ!

 

平日(水曜日)の夕方、急いで恵那までバイクを走らせた。

 

道に迷いながら「中山道広重美術館」に16時にギリギリ到着。

 

閉館まで僅か1時間しか無かったが、他にお客さんが居なかったので、静かな美術館を貸し切り状態で過ごすことができた。

 

 

しかも、水曜日はスポンサー制度協賛企業のお陰で、観覧無料だった!

 

◆中山道広重美術館 スポンサー制度協賛企業

 

・毎週水曜日は観覧無料のフリーウエンズデー

 

<スポンサー>

①(株)エナ重機

②ナカヤマ・グループ

③(株)デジタ

 

・毎週金曜日は、観覧無料のフリーフライデー

 

<スポンサー>

④(株)銀の森コーポレーション

⑤カネコグループ(カネコ・楽園住宅・木KeyPoint)

⑥(株)サラダコスモス ちこり村

 

 

通常の観覧料 一般820円なのが無料とは何とも太っ腹である。

 

これが週に2回もあるなんて、とても素晴らしい地元企業の取り組みである。

 

そして、館蔵「木曽海道六拾九次之内」192点のうち、121点は、恵那市の実業家・田中春雄氏(1912~2012)から寄贈を受けた作品群「田中コレクション」に属しているとのこと。

 

田中さま、スポンサー企業さまに感謝し、しっかりと勉強させてもらいます!

 

 

ふと、気付いた。

木曽なのに、カイドウが「街道」ではなく「海道」という表記なんだ。

 

木曽は海からは離れているので「海道」という感覚はないな~と思ったが、調べてみると、

・街道:昔の国と国を結ぶ主要道路のこと(近世)

・海道:海沿いの道、街道のこと、昔の行政地域区分(古代)

 

どうやら昔から「海道」が使われていたんだな。

 


 

静かな美術館の中でじっくりと作品を堪能することができた。

 

前期は、中山道の起点である日本橋(現・東京都中央区)から追分宿(現・長野県北佐久郡軽井沢町)までが出陳されており、英泉作品の割合が多く、水墨画を彷彿とさせる緻密な風景描写や生き生きとした人物描写を楽しむことができた。

 

版画のサイズが何だか想像していたよりも小さい・・・

 

現代で言うところのB4サイズ(257㎜×364㎜)だろうか?

 

江戸時代後期に一般的だった大奉書(54×39cm)という用紙を半分に分割したものが大判と云うらしい。

 

・大判:約39×27cm(大奉書の半分)

・中判:約27×19.5cm(大判の半分)

・小判:約19.5×13.5cm(中判の半分)

 

それにしても、この大判(B4サイズくらい)の版画の中には、信じられないくらい細かな描写があり、色使いがとても複雑である。

 

現代で言うところのカラー印刷にあたると思うのだが、江戸時代にカラー摺りとは驚きである。

 

昔といえば、ついつい白黒写真やセピア色を思い浮かべてしまうのだが、昔でも当然のことながら色は付いていたのだ。人間の眼で見ているのだから当たり前のことだ。

 

その鮮やかな色彩を版画で表現しているのが本当に素晴しい。

 

同じ元版を使いながらも、摺り違いにより、暁、日の出、晴れ渡った青空、黄昏れ、刻々と変化していく時間をうまく表現している工夫がとても面白い。

 

天保六~九年(1835~1838年)頃に制作・出版された浮世絵風景画シリーズは、版元を変えながら嘉永元年(1848年)以降まで増し摺りが行われてきたとのこと。

 

同じ図柄なのに、配色や技法などの摺りの違いによって全く異なる印象を受けてしまう。

これが190年も前に版行されていたなんて信じられない。

 

風景画は長期的な販売が可能であったそうだ。

庶民の旅が盛んになったのは江戸時代半ば頃から。江戸を往来する旅人にとって、この浮世絵版画が思い出の品となったり、帰郷の際のお土産となったのだろうか。

 


 

子供の頃に惹かれた「東海道五十三次」の旅の話し。

何故、この江戸時代の旅に魅力を感じているのだろうか?

 

最近、世界各地で起きている紛争や戦争の痛ましいニュースを見ていて、はっきりしたことがあった。

 

江戸時代の日本は"鎖国"していたのだ。

 

豊臣政権を倒して日本の支配者となった徳川家康が開いた徳川幕府。

ごく一部の国を除いて出入りを禁止する鎖国政策を採った。

 

そして、日本は約260年にもおよぶ平和な時代が訪れた。

これほどまでに長い期間、大きな戦乱もほとんどなく、ひとつの政権が続いたのは世界的に見ても稀な事例である。

 

内政が安定していたこと、外国からの侵攻がなかったことで、泰平の世を保つことができたのだ。

 

"鎖国"という限られた国情でありながらも、平和な日々のなかで、日本人は最も思考を深められた時代でもあったのだ。

 

自分が好きな話しで"鉄砲づくりから望遠鏡づくりへ"の話しがある。

 

近江国の国友(滋賀県長浜市国友町)は鉄砲の里として戦国時代以降、江戸時代まで有名だった。

九代目国友藤兵衛(一貫斎):安永七年(1778年)~天保十一年(1840年)は、幕府の御用鉄砲鍛冶職の家に生まれ、17歳で鉄砲鍛冶の職を継いだ。

文化八年(1811年)には彦根藩御用掛となった。

文政二年(1819年)にはオランダから伝わった風砲(空気銃)を基に、より実用性の高い気砲を製作した。

文政三年(1820年)頃にオランダ製のテレスコップ望遠鏡(グレゴリー式望遠鏡)を見せられ、この時、その構造を簡単に調べ、幾つかの寸法を測っただけで帰ったが、14~15年後にグレゴリー式望遠鏡を完成させたのであった。

 

材料である真鍮や青銅を作るための治金や鋳造技術、金属加工と金属面の光学研磨技術など鉄砲づくりと共通する技術があったため製作できたとのこと。

彼自身も天体観測を行い、月面や太陽黒点のスケッチを残している。

 

「岐阜関ケ原古戦場記念館」

夏季企画展「星見の歴史~戦国・江戸のスターゲイザー」

2025年7月15日~9月7日

 

国友一貫斎の製作した望遠鏡の展示があり、鑑賞することができた。

 

戦争をするための武器づくりではなく、平和のための道具づくりへ。

 

知恵と工夫が発揮できた時代であったからこそ、江戸時代の「測天量地(天を測り、地を量る)」の技術も確立されたのだった。

 


話しは変わり・・・

 

1853年7月8日、世界から隔絶されていた鎖国の日本にやってきたのは、ペリー率いる米国東インド艦隊の艦船4隻だった。

 

江戸湾入口の浦賀沖(現・神奈川県横須賀市浦賀)に来航した。

日本の近代化はこのときに始まったと言えるだろう。

この日米両国の初めての接触で驚いたのは日本人ばかりではなかったそうだ。

 

ペリー司令長官は、寺子屋や藩校などで読み書きそろばんを学ぶ日本人の教育水準の高さ、職人の腕の良さ、礼節を尊ぶ国民性に感嘆したそうだ。

 

とくに潜在的にもっている技術力の高さを見出していた。

 

"日本人は非常な精巧さと緻密さを示している。

彼らの西洋文化に対する道具の粗末さ、機械に対する知識の不完全さを考慮したとき、彼らの手工業上の技術の完全なことは素晴らしものである。

日本の手工業は世界における如何なる手工業にも劣らず熟練して精通しており、国民の発明力をもっと自由に発達させるならば、日本人は最も成功している工業の国民にいつまでも劣ってはいないだろう。

他の国民の物質的進歩の成果を学ぼうとする彼らの好奇心、それらを自らの使用に充てる敏速さによって、日本国民と他国民との交流から孤立されている政府の排外政策が緩和されるならば、彼らはまもなく最も発達した国々の水準まで達するだろう。

日本人が一度、文明世界の過去及び現在の技能を所有したならば、強力な競争者として、将来の機械工業の成功を目指す競争に加わるだろう"

 

鎖国されていた江戸時代には様々なものが育ちましたが、それらを総称して文化と呼ぶのならば、江戸時代の日本文化は世界でも誇れるものだと思います。

 

続きの、②中期「小田井~落合」の話しは、また今度。

 


旅のはじまりはモーターサイクル。

 

自由への扉をひらこう。