『ハワイ 真珠湾 戦艦ミズーリ』 戦後80年に振り返る


今年で戦後80年という節目を迎えた。

 

戦後の日本に生まれてきたので戦争体験は無いが、祖父や父親、年長者から教わってきたことはある。この節目の年に、何かを書き記したいと思った。

 

テレビCMで流れてきた、太平洋戦争3年半の記憶・・・というフレーズに思わず耳を疑った。

 

それは3年半の出来事だったのか?

 

日米開戦への道のりと太平洋戦争を振り返ることにした。

 

 

ハワイの真珠湾(パールハーバー)を観光した時のことは、いまでも鮮明に覚えている。

 

パールハーバー ナショナル メモリアルで見たシアターには、アメリカから見た、日本の姿が描かれていた。

 

平和な日曜日の朝、突然、静寂は失われたのだ・・・

 

『Remember Pearl Harbor』(真珠湾を忘れるな)の上映だった。

 

観光気分でホノルルに訪れ、ワイキキビーチではしゃいでいた自分が、とても恥ずかしく思えた。

 

周囲のアメリカ人から日本人の自分に突き刺さる視線のようなものを感じた。

 

そして胸が強く締めつけられた。

 

そうだった・・・

ここはかつて戦場だった場所だ・・・

しかも、その火蓋を切ったのは日本からの攻撃だったんだ・・・

 


■パールハーバー ナショナル メモリアル

 

1941年の真珠湾攻撃の犠牲者を慎む場所。

 


 

似たような感覚は、日本の鹿児島県は指宿市でもあった。

 

夏のキャンプツーリングで鹿児島県内を回っていたときだ。

ルンルン気分で、指宿スカイラインをかっ飛ばし、観光気分で「知覧特攻平和会館」に訪れたときのことだった。

駐輪場にはズラリとバイクが並び、革ツナギを身に纏った走り屋たちがいっぱい居た。

 

軽く涼もうかな~と思い、会館の中に入っていった自分が、どれだけ浮かれ気分で大バカ野郎なのか・・・

 

とても恥ずかしかった・・・

 

同じ日本人として、申し訳ない気持ちでいっぱいになった・・・

 

 

自分達よりも遥かに若い人達が、

 

祖国を守るために・・・

故郷に残された家族を守るために・・・

この国に再び春が訪れることを願って・・・

 

戦場に旅立って行かれた。

 

父上様、母上様、散りゆく自分をお許しください・・・

 

特攻前に書かれていた、たくさんの遺書は、涙で読むことができなかった。

 

 

いまの日本人が平和でいられるのは、祖国の礎となったみなさま方のお陰であります。

 

ご先祖様、どうか安らかにお眠りください。

 


■知覧特攻平和会館

 

太平洋戦争で戦死した特攻隊員をしのぶ博物館

 


 

話しは、ハワイの真珠湾(パールハーバー)に戻る。

 

その後、メモリアルセンターから対岸のフォード島に渡り、戦艦ミズーリに乗船した。

 

退役軍人の親切なボランティアのガイドさんが案内をしてくれた。

 

正直、戦艦ミズーリのことは知らなかった。ガイドさんは流暢な日本語でたくさんのことを教えてくれた。

 

真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争から終戦までの歴史を話してくれた。

 

 

<真珠湾と日本本土の出来事のみを抜粋>

 

・1941年(昭和16年)12月7日、日本軍による真珠湾攻撃、太平洋戦争の幕開け

・1942年(昭和17年)4月18日、ドーリットル部隊による東京空襲

・1944年(昭和19年)6月15日、本格的な日本本土空襲の開始

・1945年(昭和20年)8月6日、広島上空にウラニウム爆弾「リトルボーイ」を投下

・1945年(昭和20年)8月9日、長崎上空にプルトニウム爆弾「ファットマン」を投下

・1945年(昭和20年)8月15日、日本は無条件降伏

・1945年(昭和20年)9月2日、東京湾内に停泊した戦艦ミズーリ艦上で、降伏文章調印式が行われた。

 

"ここがまさに歴史的な場所だよ"と、

連合国の代表が鈴なりに並んでいたという、中央部甲板上を案内してもらった。

 

日本が戦争に負け、無条件に降伏し、降伏文章調印式が行われた場所だ。

 

大戦時の世界は、ヨーロッパを中心として「連合国」と「枢軸国」に分かれていた。

 

・連合国:アメリカ,イギリス,ソ連,中国

 

・枢軸国:ドイツ,イタリア,日本

 


■戦艦ミズーリ(USS Missouri,BB-63)

 

アメリカ海軍の超弩級戦艦、アイオア級の3番艦、艦名はアメリカ合衆国24番目の州に因む。

 

就役は1944年6月11日、第二次世界大戦,朝鮮戦争,湾岸戦争を経て、1992年3月31日に退役。

 


 

戦艦ミズーリは太平洋戦争から湾岸戦争まで戦ったが、唯一攻撃を受けた場所があったという。

 

その傷跡がある、船体後部の右舷側に案内された。

 

それは日本軍の特攻機による体当たり攻撃によるものだった。

 

日本軍は、弾薬はおろか食料さえも補給が滞っていた。

対するアメリカ軍は、圧倒的な物量と最新の兵器を投入し、陸海空で優位な戦いを展開し、日本軍を追い詰めていた。

最前線の島では守備隊の果てしない玉砕が続き、ついには特攻が導入された。

もはや人間が演じる行為を完全に逸脱してしまったのだ。

 

"君はその日本人のことを知っているかい?"と聞かれ、知らないと答えたら、ガイドさんはとても悲しい顔をしていた。

 

太平洋戦争末期の1945年4月11日、沖縄海域において米機動部隊の真っ只中にゼロ戦が突入したのである。

 

そのパイロットは、鹿児島県の鹿屋航空基地を出撃した、七二一航空隊 第五建武隊 四区隊の石野節雄二飛曹(岡山県出身 )であったとされる。

 

このとき戦艦ミズーリの乗務員は、特攻機の攻撃で恐怖と疲労の限界にあり、極限状態にあった。

憎悪の目で飛び散った遺体を海中に落とそうとしたが、キャラハン艦長はこれを制止した。

 

"この日本のパイロットは、われわれと同じ軍人である。生きているときは敵であっても、今は違う。激しい対空砲火や直衛戦闘機の執拗な攻撃をかい潜って、ここまで接近してきたこのパイロットの勇気と技術は、同じ武人として称賛に値する。よって、このパイロットに敬意を表し、明朝水葬に付したい"

 

乗務員の大半からは、激しい非難と不満の声が艦内を渦巻いた。

当然のことである。

殺そうと意志をもって突入してきた特攻機なのだ。

 

しかし、キャラハン艦長は断固としてその命令を変えなかった。

その夜、遺体の当直を命じられた通信兵は、白いシーツに赤い日の丸を描いて日章旗をつくり、包み込んだ。

 

翌4月12日午前9時、手空き総員が甲板に集まり、米国海軍の伝統に従って、海軍葬礼の五発の弔銃と、艦長以下士官の挙手の礼と共に、このパイロットの遺体は、静かに海中に滑り落とされた。

 

その30分前には、接近してくる日本機がレーダーで捕捉されていた。

いつ特攻機の攻撃が始まるのか分からない不安な朝の時間帯であったのだ。

 

海に落ちて力を失った者を救うのが米国海軍の伝統といわれる。

 

キャプテンである艦長のキャプテンシーには統率力や指導力、リーダーとしての資質、そして人間愛が含まれる。

 

キャラハン艦長の私情、私怨を越えた、武人としての信条、人間の器の大きさに感服せざるを得なかった。

 

 

観光地のハワイで知る初めての事実。

 

あまりにも無知な自分。

 

アメリカの中にいる日本人としての立ち位置。

 

真珠湾攻撃は正当であったのか?そうではなかったのか?

 

『Remember Pearl Harbor』のもと、真珠湾の屈辱から立ち直り、見事勝利を勝ち得たアメリカの強さ。

 

両国の犠牲者を思うと、あまりにも複雑な心境で、言葉もなく、ただ立ち尽くすのみだった。

 


 

帰国後、文庫本『戦艦ミズーリに突入した零戦』を購入し、あのガイドさんの話を復習した。

 

1機目が突入したのが14時43分

2機目が対空砲火によって撃墜され近くの海面に没したのが14時47分

 

先行機と後続機、パイロットは2人のうちどちらかであった。

 

・七二一航空隊 第五建武隊 四区隊 二編隊長・石井兼吉二飛曹(千葉県出身 1925年生 享年二十歳)

・ペアを組んでいた同 四区隊 四番機・石野節雄二飛曹(岡山県出身 1925年生 享年二十歳)

 

2人とも弱冠二十歳、あまりにも若すぎる死といえる・・・

 


 

日本が近代国家として歩み始めた19世紀という時代は、西欧列強が起こす「帝国主義」が吹き荒れていた。

 

明治政府の高官たちは、日本が進むべき道「有色人種初の帝国主義国家建設」を決定した。

 

しかし、猛烈な勢いで産業の近代化、軍隊の増強に努め、西欧の仲間入りを果たしたがゆえに、軋轢も生じさせてしまったのである。

 

近代国家日本の船出は、西欧諸国の反感を買い、誤解と疑念を抱かせることになった。

 

国際社会からの孤立、独伊との距離を縮め三国軍事同盟へ。

 

西欧列強の経済封鎖にも耐えつつ、最後まで戦争回避を諦めることは無かった。

 

しかし、豊富な資源と経済基盤を持つ連合軍、持たざる国であった日本。

 

日本とアメリカの産業力、生産力、戦力の差は一目瞭然であった。

 

日本の石油は、ほぼ100%を輸入に頼っていたが、その1番の輸入先は皮肉にもアメリカであった。鉄類や機械類もアメリカからの輸入に頼っていた。

 

アメリカは当然のごとく、これら戦略物資の対日輸出に制限を掛けた。

さらには高率関税も掛けて経済制裁も加えた。

 

日本を戦争へと仕向けるアメリカをはじめとする連合国側の戦略という執拗な罠でもあった。

 

・日本は何もせずに干しあがるのか?

・白人国家の植民地となり、アメリカの軍門に下るのか?

・資源を求めて南方へ進出するのか?

 

もはや選択肢は無かったといえる。

 

生活に必要な資源も輸入に頼っていた日本は、世界を相手にまともに戦える産業構造では無かった。それにも関わらず、戦争回避の道は閉ざされてしまった。

 

ついに未曾有の戦争へ舵を切ることになった。

 

1941年(昭和16年)12月7日、ハワイ真珠湾に停泊していた米太平洋艦隊を攻撃した。

 

<米国側の被害>

沈没:戦艦6隻、巡洋艦等その他6隻

大中破:戦艦2隻、巡洋艦4隻

航空機破壊:219機

戦死者:2400名

 

<日本側の被害>

沈没:特殊潜航艇5隻

航空機:29機

戦死者:64名

 

痛烈な一撃を浴びせることには成功したが、アメリカの士気を挫く真珠湾攻撃は完全に裏目に出てしまった。

日本の暗号電文は解読されていたが、日本の騙し討ちという大義名分が必要だったのだ。

 

"敵が攻撃してくることが分かっている時、手をこまねいて待っていることは通常、得策ではない。しかし、日本側に最初の1発を撃たせることは危険ではあるが、アメリカ国民の完全な支持を得るためには、日本軍に最初の攻撃をさせて、どちらが侵略者であるかについて、疑う余地のないようにすることが望ましいことを、我々は十分に承知していた"

<ヘンリー・スチムソン陸軍長官>

 

そして、真珠湾攻撃から4か月後のこと、

1942年(昭和17年)4月18日、空母ホーネットから発進したドーリットル陸軍中佐率いる16機のB-25中型爆撃機が東京、川崎、名古屋、神戸などを空襲した。

 

『真珠湾の恨みを東京で』

 

ドーリットル部隊による東京空襲は、真珠湾攻撃に対する報復の意図があった。

そしてルーズベルト大統領の期待通り、アメリカ国民の士気を大いに高めた。

 

その後、「超空の要塞」と称された大型の長距離戦略爆撃機B-29の完成により、中国の成都にある米軍航空基地を離陸すると、九州北部が爆撃範囲に収まるようになった。

 

1944年(昭和19年)6月15日、75機のB-29が飛び立ち八幡、小倉、戸畑、門司、若松を空襲。

本格的な日本本土空襲の始まりである。

 

同じころ、マリアナ諸島のサイパン島に上陸。ここが米軍の航空基地となれば、北海道を除く日本本土が射程距離に入った。

 

1944年(昭和19年)11月24日、マリアナ諸島に配備されたB-29が111機出撃。88機が東京に来襲した。

 

初期の空襲では、高高度精密爆撃で始まり、目標は軍需工場に置かれていたが、それでは日本人の戦意を喪失させられないことから、低高度から焼夷弾を集中投下するという無差別爆撃に方針を転換させた。日本は家内制手工業主体で、市街地は軍需工場と一体というのが理由であった。

 

ひと晩で10万人の非戦闘員が亡くなる、史上に残る大量虐殺、東京や大阪を始めとする大都市だけでなく、主要な地方都市まで焼き尽くした大空襲である。

 

1945年(昭和20年)8月14日までに、150を超える街に爆弾の雨を降らせ、文字通り焦土とした。

 

B-29の開発の始まりは、米陸軍が1940年(昭和15年)に大手航空機メーカー4社に提示した「時速644キロ、航続距離約8600キロ」という高性能重爆撃機の計画案であった。

 

しかも、試作機の完成を前にして1941年(昭和16年)9月には、早くもボーイング社に250機を生産発注をしていた。

アメリカはこのときすでに参戦は避けられないものと考え、B-29の重要性を見通していたのである。

 

日本の運命は、真珠湾攻撃の3か月前にあたるこの時点(1941年9月)で、既に決まっていたのかも知れない。

 


 

私の祖父は長崎県の出身だった。祖父母ともに長崎原爆の被爆者であった。

人類史上初の大量殺戮兵器、原子爆弾の投下により、一瞬にして広島と長崎は消え去った。

 

戦後、名古屋に移り住んだとのことだっだ。

父親の子供の頃の白黒写真を見ると、どこもかしこも焼野原であった記憶がある。

 

自分が子供の頃、祖父母の家に遊びに行くと、気になることがあった。

部屋の天井からぶら下がっている電器には黒い布がぐるりと被せられていた。

子供ながらに何であそこに布を被せているの?と尋ねたら、

空襲があるから光が漏れないようにしないといけない、という答えだった。

このとき既に太平洋戦争は終結していたのだが、祖父のなかでは戦争の恐怖は継続していたのだと思う。

 

そういえば自分が小学生の頃、親が防空頭巾と言っていたので、いまでも自分の子供の"防災"頭巾のことを、ついつい"防空"頭巾と呼ぶ癖が残っている。

 

通っていた小学校には、担任の先生が揃えた「はだしのゲン」があり、クラスで読み回しをしていた。みんな食い入るように読んでいたからカバーはボロボロになっていた。

ピカドンの内容が恐ろしかったのは強烈に覚えている。

大人になってから懐かしくなり、文庫コミック版「はだしのゲン」を購入し、自分の子供にも読ませたことがある。

 

戦後78年を迎えた2023年、広島市の平和教育副教材から漫画「はだしのゲン」が削除され波紋が広がった。

累計発行部数は1000万以上。世界各国で翻訳され、読み継がれてきた漫画である。

なぜ削除されてしまったのか?

天皇の戦争責任を問う場面など、歴史認識を巡る表現に課題があるのだろう・・・

 

 

 戦艦ミズーリに特攻してからその4か月後には、中央甲板部で太平洋戦争終結の降伏調印式が行われた。

靖国に戻りたいと願い、散っていった特攻隊の若者たちは、天国からその光景をどのように見たのであろうか?

 

いま、故郷には平和が訪れ、春には美しい桜や人々の笑顔が咲き誇っています。

 

平和が享受できる祖国に心から感謝いたします。

 


旅のはじまりはモーターサイクル。

 

自由への扉をひらこう。